小池真理子 悪の愛情論   とらわれない愛 はじめに  人はありのままの真実を見せられると、恐ろしさに立ちすくむ。そして決まって、「そんなのは嘘《うそ》だ」と否定してくる。ありのままの真実というものの中には、人びとが認めたくても認めるに値しないような醜い汚ないものが多いからだ。  今の社会は虚飾の社会だと思う。皆、�ええかっこ�して、キレイゴトの中で生きている。男女間の色恋|沙汰《ざた》も、大人と子供の関係も、大人同士の関係も、果ては政治の世界まで、おしなべてキレイゴトですませようとする傾向にある。そしてその中で、本来の道徳観念から言うところの「善」に反するものは、寄ってたかって袋だたきにされる。  身上相談の回答者は、常に善人ぶった答えしか出さない。夫の浮気に悩む妻には「耐えろ」と言い、厭世《えんせい》的になっている若い女性には「勇気をもって生きなさい」と言う。誰《だれ》も「夫の浮気など忘れて、アナタもどんどん浮気し、男から金をふんだくって生きなさい」とか「世の中イヤなら、開き直って好きな事をやりまくればいい」などとは言わない。  何故か。  そうした回答は反社会的なことだからである。そして、反社会的ということは即ち、社会の秩序を乱すことになるからである。既成のモラルが失われるからである。  だが夫の浮気に悩む妻は果たして「耐えなさい」と言われて納得できるだろうか。人生に絶望している女性は「勇気が必要」と言われただけで、元気づけられるだろうか。まやかしの正義感に満ちあふれ、仕事もキレイゴトですませようとする人たちに、他人の悩みの相談などやってほしくないのである。  確かに、今の社会は戦前に比べて自由になった。人びとは自由に発言し、文を書き、自由に愛し合えるようになった。だが、不道徳なこと、非常識なことを主張すると、私たちは非難される。正直な主張や感想が、マジメぶった人たちから非難を受けるというのは、社会において危険な徴候であると言えないだろうか。  道徳や常識は人間の本能を禁じる。本能を禁じられた人間はそのまま、本能を失い、社会の作りあげた役割をそっくりそのまま演じようとしてしまう。  男と女の関係、とくに女の社会におけるあり方は、ちっとも自由平等ではない現在の�エセ民主主義社会�の中で、規定されかかってしまっている。だからこそ、正直な発言、真実を知ろうとする態度から目をそらしてはならないのである。  すべての人がそこから目をそらして、大マジメな正義の味方、道徳の味方になってしまったら、弱い者は切り捨てられ、権力のない者としての女は、ただそれだけで抹殺されてしまう。  私は本書の中で自分も含めて、人間の心理、男と女の関係の真実を、できる限り正直にありのままに書いてみた。まやかしではない、キレイゴトではない、社会に規定されない人と人との関係が欲しかったからである。  最後になるが、本書を書きあげるにあたって暖かい助言をしてくださったかたがたに心から感謝の意を表する。 小池真理子 目 次 はじめに 一章 愛はインモラルなもの  常識をうのみにしていては生きていけない  退屈な日常の中で自らがバクダンとなろう 二章 恋愛は共同幻想である  ホンモノの愛とニセモノの愛に違いはない  人を愛するのは自分のためである 三章 妻にならないことの選択  愛とは誰かを泣かせることで成り立つ  鬼のような女になれるエネルギーを 四章 愛の呪縛《じゆばく》からの解放  嫉妬のもとは単なるエゴだ  別れを食って生きていこう 五章 女のダンディズム  主体的に選んだものには裏切られない  サラリとしたつきあい方にみる誠実さ 六章 女の役割常識を打破せよ  男もつくられて男になる  ほんとうに性は解放されているのか 七章 女は皆ドンファンである  エロスのやさしさ、そして怖さ  貞淑なのではない、もてないのだ 八章 結婚の虚像は何も生まない  取りかえのきく相手との結婚願望のもろさ  �巣�は守るものではなく、捨てるもの 九章 愛の神話は信じられない  母性本能という神話にまどわされるな  親孝行は一つの契約である 十章 あるがままに生きよう  あなたは生まれながらのワルである  内なるモラルを確立せよ 一章 愛はインモラルなもの  常識をうのみにしていては生きていけない �常識�という言葉がある。「あの人は非常識な人だ」とか「もっと常識を考えろ」とか、私たちは普段、何の疑問も抱かずに、この言葉を使っている。  しかし、この�常識�というものが何なのか、いったい、いつ、どこで、誰《だれ》が決めたものなのか知っている人は誰もいない。自然に出来上がってしまったもの、どういうわけだかわからないままに、何故かそういうことになってしまったものにすぎない。  そして、私たちは多かれ少なかれ、常識とやらに従って行動している。何か不都合であると感じ、矛盾しているなと腹立たしくなったとしても、私たちは�非常識な人間�と呼ばれたくない。ただそれだけのために、わけもわからず実体のない�常識�にしがみついて生きている。  確かに�常識�は大多数の人間に支持されている。たとえ、一人の人間が「自分だけはこんな常識にふりまわされたくはない。自分は自分だ」と抗議しても、それは抗議にすらならず、圧倒的多数の�常識信奉者�たちの集団リンチに合うのがオチである。言ってしまえば、�常識�を信じている私たちは、得体の知れない教祖を拝み、絶対服従を誓う狂信的宗教団体にも似ているわけである。  私がそのことに初めて気づいたのは小学校二年生の時だった。  今でも同じだろうが、当時も夏休みになると、絵日記の宿題が出され、毎日気がついたことをクレヨンを使って絵入りで書く作業をしなければならなかったのだが、その中の一ページに私はアリを殺した話を書いたことがあった。  どういうわけか、そのころ私が住んでいた家のコンクリート製の小さな門の前には、毎年夏になると、驚くほどたくさんのアリが現われて長い行列を作っていた。虫の死骸《しがい》や食べ物のカスなどをくわえて、せっせと立ち働くアリの行列を見ていて、私は何故か「ここに火をつけたらおもしろそうだ」と思ったのである。さっそく家からマッチを持ってきて、火を放った。一本のマッチでは数匹のアリしか焼き殺せなかったから、何本も何本も大量にマッチをすった。  焼き殺す瞬間には�ジュッ�という音がかすかにして、気のせいかアリの悲鳴が聞こえるようだった。それがおもしろくて楽しくて、私はついにアリの行列を全滅させ、あげくの果てには彼らの巣の中にマッチの軸を何本もつっ込んで、二度と巣に入れないようにまでした。  そのことをあるがままに絵にし、五、六行の文章にして私は絵日記帳を完成させ、学校に提出したのである。  すると、新学期が始まって間もないころ、放課後、私は担任の教師に職員室に来るように命じられた。何か怒られるのかしらと不安な気持ちで職員室に行くと、彼は私の絵日記帳のアリを殺した日のページを開いて、厳しい目で私を見つめた。 「アリを殺して楽しかったかどうか、正直に言いなさい」  私はうなずいた。「はい」と答えた。彼がさらに厳しい顔つきになっていくのがわかった。私は何やら恐ろしくなって身体中が震え始めた。「アリは殺してはいけないんだ。生きているものはむやみやたらと殺してはいけない。わかるね。わかったら、もう二度とこんな絵日記を書いて先生を悲しませないようにしてほしい。先生は本当に悲しい」  彼はそう言って、私に無理矢理「ごめんなさい」を言わせ、私の見ている前で絵日記のアリのページに、赤インクで大きくバツ印をつけてみせたのだった。  私は先生の言っている�いけないこと�という言葉の意味がまるで理解できないということを幼いながらも感じていた。  何故、アリを焼き殺したことを書いた絵日記がバツ印で、他愛もない日常的なこと……たとえばおかあさんと花火を買いに行ったこととか、おとうさんと海水浴に行ったこととかを書いた絵日記が二重丸、三重丸で埋まるのか。  何故、夏休みにやったことで一番楽しかったことが「アリを焼き殺したことだ」と答えると�いけない��悲しい�というマイナスの評価になるのか。  私にはそれらがまったく理解できなかった。小学校二年生程度の伝達能力では、そうした疑問を言語化することも不可能で、私は仕方なく、誰にも説明を求めることなく過ごすしかなかった。  たったひとつ、その絵日記の件で私が学んだのは、どんなにつまらない、ごく日常的なことでも、その中で精一杯、人並に楽しんでいるフリをしてさえいれば、大人は誰も文句を言わない……ということだった。  その、ごく日常的なことというのが他ならぬ�常識�だったのである。常識に従って生きる人間が正常であり、常識を少しでもはずれた行動をとる人間が異常であるとする当たり前の原則からしてみれば、私の幼いころやっていたことはすべて異常だった。私だけでなく、多くの人が多分、一度は異常者に仕立て上げられかけた経験があるのではないかと思う。  私はアリの絵日記の一件以降、周囲の人間たちから�異常で末恐ろしい子供�といった目で見られるのがいやで、わざと無理して普通の子供らしくふるまっていたけれど、陰ではおかしなことばかりやっていた。  クラスの好きな男の子の写真に向かって、映画で見たラブシーンの時のセリフを投げかけてみたり、『禁じられた遊び』の映画同様にお墓ごっこに興じて庭にたくさんの卒塔婆《そとば》を立ててみたり……。こんなことを絵日記に書いたら、また、担任の教師が血相変えて飛んでくるのではないかと思いつつ、ひそかな楽しみにふけっていた。  最近、聞いた話であるが、私の友人の一人は、やはり小学生のころ、自分の肉体がどれだけの痛みに耐えられるかを試してみたくて、台所で、大きな漬物石を自分の足に落としたのだという。  重い石が、一メートルほどの高さから落ちてきたわけだから、彼の足の爪は割れた。「ああ、やっぱりすごく痛いもんだな」と納得した時、母親が、それこそ血相変えて飛んできた。おそらく、我が子が気でも狂ったんじゃないかと思ったのだろう。彼はその後、足の傷が癒《い》えても、しばらく精神科医のもとに通わされたのだという。  彼の例を出すまでもなく、多かれ少なかれ、私たちは常識はずれな行動をまったく純粋な気持ちで、無邪気にとってしまうことがあるのだ。そして、その時、私たちは異常者にされてしまい、非常識な人間として、社会の正常な人間たちから白眼視される羽目に陥る。常識とは何か、正常とは何か、という一連の質問に対して、まるで解答をもたない人びとの勝手な判断で、非常識やインモラルな部分は社会的に抹殺されていく。  しかし、よく考えてみれば、常識も正常も、その時その時の社会のあり方や時代により千差万別に異なっているわけだ。  たとえば、戦争がおこったりすると、人を殺すのが常識になるのである。戦場で機関銃をかまえながら、敵方の兵士の命の無事を祈ったりするような奴はむしろ非常識な人間、反社会的人間になる。  ヒトラーをあがめてユダヤ人を虐殺したのも、スターリンをあがめて強制収容所を作ったのも、そして、天皇陛下のために若き特攻隊員が死の飛行を続けたのも、すべて歴史が作りあげたその時その時の常識に万人が従ったからであった。  また、地域によっても異なる。我が日本国をはじめとした先進国では、結婚前に女が処女であることが、原則として一つの大きな常識になっているのに反して、アフリカのチェワ族などは結婚前に女が少しでも早く、より多くの男性と接してセックスを知ることが常識とされている。  何が常識であるのか、どう生きることが正常であるのか、それは誰にもわかっていない。そして同時に、ほとんど全ての人が自分のあるがままの姿とあるべき姿との間に大いなるギャップを感じ、何か居心地の悪い気分を覚えながらも、致し方なく、わけのわからない実体のない常識というものを崇拝し、信じて生きている。  それがヒトの、生きのびるための知恵であるのかもしれない。私が幼いころ、�常識的な子供�として人びとから認められなければ生きていけないと悟って、二度と絵日記におかしなことを書いたりしなくなったのと同様、ある程度、ものごころがつくと、人は誰しも疑問や矛盾を見ないようにして�常識�に従って行動していくのかもしれない。  だが、私が興味をもつのは、その�常識�に従えなくなった時の人間のとる行動と感情の動きである。それは、抑圧され続けてきたものが一挙に爆発する時の様子に似ていると思うのだ。  私たちが意識する、しないにかかわらず、常識というやつは私たちの本能や無邪気な欲望を抑圧する。無理して常識人を気取っていればいるほど、その抑圧度は大きい。  抑圧され過ぎたものは必ず、一度、どこかで爆発する。人間の心の均衡はそうでもしなければ保てないからだ。そして、たいていの場合、爆発して初めて知った非常識の部分に対し、人は「これこそ真実だったのではないか」と思う。  何が真実で、何が嘘《うそ》であるかは、何が常識で何が非常識であるかを問うのと同じく、答えようのない問題ではあるけれども、それまで嘘だと頭から信じていたことが、あるきっかけを境にして、その人にとっての真実になり変わってしまうことがよくあるのである。  一度、非常識を認識した人は、そうした意味で、狂信的に常識を信じ、あがめたてまつる一般人のアホさ加減を、冷めた目で眺められるようになる。いくら�非常識者�とののしられ、血祭りに上げられようと、非常識の部分を体得した人は、常識人がいかに錯覚の上に成り立っている集団であるかがわかって、小気味よくなるはずである。  くどくどと書いたが、私は、こうした一連の非常識の部分に、メスを入れて、人間の愛の世界に焦点をしぼりつつ探ってみようと思いついたわけだ。  常識的な恋愛などあるわけはなく、すべての人が常識に従って恋愛していると思いこんでいるだけで、その実体はおしなべて非常識なものであること。そして、さらに、反社会的、反道徳的なものであること。  きれいごとを言って、恋愛を美化し、誠実な愛だけが美徳であると信じこみ、社会が求めるパターンに自分たちの恋愛をすっかり封じこめては安心し、「皆に祝福されて幸福だ」とぬけぬけと語る——その恋愛幻想について、私は意地悪く否定したいと思っている。  男と女の間や人間同士の間にある、不条理でまったく非常識な心の動きや行動に目をとじてしまってはならない。それはあるがままに認めなくてはならない。  世の中の�善�の部分ではなく�悪�の部分を、�聖なる�部分ではなく�汚れた�部分を、私はこの本の中で書いてみたい。こうしたことを書くことは、ある意味で理念としての女性解放とは対極をなすのかもしれないが、それはそれでかまわないと思っている。 『マクベス』の中に登場してくる三人の魔女はこう言っている。   きれいは汚ない   汚ないはきれい (小田島雄二・訳)  きれいな部分だけ眺めていても始まらないのだ。汚ない部分、目をそむけたくなるような、あるいは、口に出したくなかったような非常識でインモラルな部分こそ、いま一度白日の下にあばき出したい。  私たちの社会は確かに表面上は常識的だが、そこに住んでいる人間たち一人一人の胸の内に非常識でインモラルな世界が常に潜んでいる。そしてそれが見事に外へ向かって噴出するのは、恋愛をした時なのである。  そんなことをふまえつつ、愛がどれほどインモラルかを、それぞれのテーマに沿って考えていきたいと思う。  退屈な日常の中で自らがバクダンとなろう  具体的に愛のインモラルを考える前に、もうひとつだけ確認しておかねばならないことがある。それは、私たち人間が、多少なりとも、ありきたりな平和な日常生活に退屈しきっているという事実である。  よく晴れた暖かな日曜日の午後など、街へ出てみると、道ゆく人びとは皆、文字通りの平和をぶら下げながら笑いさざめいているものだ。  恋人たちは手をつなぎ、肩を組み、家族連れは子供の手を引き、あやしながら、陽の光をいっぱいに受けてキラキラと輝いている。街角の花屋には季節の花が所狭しと飾られ、ショーウィンドウの中では、美しいマネキンが人びとの羨望《せんぼう》のまなざしを集めて、しゃれたコスチュームをまとっている。通りのベンチに腰かけてハンバーガーを食べる人、かかえきれないほどの買い物包みを抱きながら歩く人、今夜の食事の相談をする若夫婦……。  そして、バスや電車はいつも、定刻通りに動いていて、平和そうな人びとの群れをのみこみながら、彼らの家路へとエンジンをふかすのだ。  これが平和でなくて一体、何だろうか。右翼の宣伝カーのむこう側で、左翼の一群がビラをまき、「政治が悪い、国が悪い」と怒鳴ってはいるものの、両者とも、平和な人びとの群れの中にうまくはまり込んでいて、日常性の一点景になってしまっているのだ。  平和は確かに幸福な状態ではある。大多数の人間が、文句なく支持する至上の幸福ではある。しかし、平和は退屈と背中合わせでもある。眠たくなるような、うっとりとした、けだるい、ほとんどの感傷とはほど遠い、一種の静止した状態である。  私たちはときどき、この何の事件もない平和な毎日に飽き飽きすることがある。朝、目ざめてから、夜、眠りにつくまでの間、食べる時間があり、人と会う時間があり、電車やバスに乗る時間があり、それぞれの時間が区切られている、退屈な何の変哲もない毎日は、幸福すぎるだけでなく、同時にまた、ぞっとするほど嫌悪感をもたらすものでもあるのだ。  私は、あの忌むべき戦争をなつかしく語る人をたくさん知っている。そうした人たちは、決して人を何人殺したとか、バクダンを何個落としたとかについては語らないけれど、彼らの戦争に対する郷愁にも似た気持ちが、聞いている方にも伝わってくる。  それは何なのだろうと、私はときどき考えこんでしまうのだ。血塗られた戦争当時の日々の生活——食料の欠乏状態や生きのびることに必死になりすぎて、悲しみすらも満喫できないような毎日。日本が勝つか負けるかギリギリのところで、戦争の善悪など考えもせずに、ただひたすら生きのびようとする、追いまくられたような生活——それが何故、平和に舞い戻った毎日の中で、何となくなつかしく思えるのだろうか。  戦争を感傷的に語る人は、現在のうっとりとした、平和で幸福な日々に満足すればするほど、再び、血沸き肉躍るあの生死をかけた緊張の日々が欲しくなっている人なのではないだろうか。  坂口安吾の短編に『戦争と一人の女』というものがある。戦争中の悲惨な生活にみる緊張感を心から愛した女の物語である。東京の空をアメリカの飛行機が飛び交い、あちこちで火の手があがり、人びとがクモの子を散らすように逃げまどう中で、死ぬことのこわさを抱きつつ、一人の男と空襲のさなかに愛し合うことに、生命の燃焼を感じた女の話である。  結局、戦争は終わるのであるが、終わったあと、彼女は大きなとまどいを感じるのだ。平和すぎる毎日の中で、バクチをやったり、ダンスをしたり、浮気をしたりしてみても、彼女には退屈すぎてうんざりするのである。そして彼女は言う。 「もう戦争がなくなったから、私がバクダンになるよりほかに手がないのよ」  彼女には人びとが何故、戦争を憎んで平和を求めるのかが理解できなかった。彼女は常に、愛し、たわむれ、逃げたり隠れたり、息をひそめては�敵�が行きすぎるのを待ち、ギリギリのところで生命をおびやかして生きていたかったのである。  彼女にとっての恋人は�戦争�——日常生活を大逆転させてくれる、あの�戦争�だったのである。  この彼女の気持ちは私にも手にとるようにわかる。誰も滅多に口にはしないけれど、私たちはほとんど全て、心の中で戦争のような状態……つまり、価値がさかさまになってしまう状態や、おかしな出来事の出現を望んでいる。それほど私たちにとっての日常生活は、平和で退屈なのである。  白状すると、私は毎朝、新聞を読む時、何かを期待する。たとえば殺人事件、誰かがUFOを見た話、猟奇的事件、それから、芸能人の誰と誰とがくっついただの離れただのというスキャンダル、他人の裁判の結果や政治家の常識を超えた悪事モロモロ。  これら、自分と関わり合いのないところでひきおこされた事件のかずかずは、どれほど私を興奮させるか、わかったものではない。とくにふだん、考えられもしなかった風変わりな事件には、文字通り、エキサイトして血沸き肉躍るのである。  一度、日本の某漁業船に怪獣の腐乱死体がひっかかったといって大騒ぎになったが、あれをサメだ、怪獣であるわけがないと断定したのは、善良なる読者……素朴に非日常的な事件を期待している善良なる読者を、どれほどがっかりさせたことか。  我われは、日常生活の単調さにうんざりしているのだから、あれは大きなウバザメの死体だったなどということを信じたくないのだ。あくまでも「怪獣の死体であってほしい」と願い続けるわけである。  それから、変わった殺人事件。バラバラ死体が見つかった話とか手首スープの話とか、全て読んで興奮する。口では殺した犯人を「極悪者!」とののしり、殺された人に「かわいそうに」と同情しておきながら、本当はそれらの事件を楽しんでさえいるものである。  自分とまったく関係のないところでおこった悲惨な事件に心から同情し、一日中涙にくれて食欲がなくなるという人がいたら、お目にかかりたいほどだ。  たいていの人びとは善人ぶって悲しんでみせたり、犯人をののしってみせたりするだけで、心の中では風変わりな事件のぼっ発を歓迎してさえいるのである。  私たちはそれだけ、退屈している。芸能界のスキャンダルも、私たちにとって格好のエジキとなる。  二度離婚して、三度目にくっついた女とも別れようとしている男の話とか、妻子ある男と同棲《どうせい》している女の話とか、その話の主人公が有名人であればあるほど、私たちは歓迎する。  何故なら、ふだんから私たちがやりたくてもできなかったことを、彼ら彼女らがやってくれているからである。あるいは、私たちがひそかにやっていて、もし世間に露《あらわ》になったら、「何というひどい女だ」と白い目で見られそうなことを、彼女らが平気でやってくれているからである。  即ち、そこには日常的なモラルが完全に失われていて、インモラルな話が次から次へとポンポン飛び出してくる痛快さがあるのだ。スキャンダルをおこしてくれるという理由だけでも芸能人の存在価値はあるし、私たちはこの先、永遠にそうした芸能人たちを必要としていくだろう。  もし、新聞やテレビ、ラジオ、雑誌などが一切なくなり、他の人びとがどんなにおかしなことをしでかしても、どんなに風変わりな事件が発生しても、すべて私たちの耳に入らなくなったとしたら、私たちは未開人のように単調な日々のくらしの中で生きることだけを考え、そしていつしか退屈に腹をたてて、先述した安吾の作品の女主人公のように、�自分がバクダンになって�しまうだろう。自分でおかしなことをしでかして満足するようになるだろう。  少し、話はそれるが、私は高校生時代、学生運動に身を投じていたことがあった。ちょうど70年安保のころで、私はさかんに一人前の顔をして学習会に出たり、デモの隊列に加わったり、ビラを刷ったり配ったりしていた。  それは緊張した楽しい日々だった。私がどこまで70年安保問題を真剣に考えていたかは、まったく疑問である。もしかしたら、私にとってどうでもいいことだったのかもしれない。ベトナムで毎日、何千人という人が殺されていても、日本の大企業がベトナムに兵器の輸出をしていても、アメリカの傘の下に日本がはまり込んでふざけた条約を結ぼうとも、私の日常生活には何ら直接の影響はなかったのだ。  カッコよく�挫折《ざせつ》感�を感じているふりをしたり、革命の旗手を気取ってみたりはしたものの、結局のところ、私はただ、毎日の生活に退屈していたからやったにすぎないという気がする。  悪いと言われることは、だから、何でもやった。学校の授業をサボり、喫茶店で全共闘のお兄さんたちとタバコを吸いながら、わかりもしない議論をし、デモに加わって奇声を発したりした。  デモに出て機動隊につかまりそうになって、他の男たちと逃げまどう時の怖さ、緊張感には筆舌に尽くしがたい快感があった。私は、日曜日の午後、平和に群れつどっている人々を軽蔑《けいべつ》し、唾棄《だき》すべきバカな連中だと思いこみ、彼らの見ている前で反日常的な行動——デモや集会——をすることに至上の幸福を覚えた。  どれだけ多くの仲間たちが私と同じような気分でいたかはわからない。中には心から世の革命を願い、悪を是正しようと頑張っていた人もいただろう。闘争がうまくいかずに死を考えたりする人もいただろう。  しかし、そうした人たちは別として、少なくとも私の中では、学生運動というものにでもしがみつかなければ、ぬるま湯のような平和で暖かい日常生活の退屈さに、気が狂ってしまいそうな部分があった。  当時の仲間の一人は運動をやめたある日、私にこう言った。 「私はあの時、何故あんなに一生懸命運動していたのか、今になってわかるのよ。私にはあのセクトの中に好きな人がいたの。だから、私は闘争の理論書を読み、わけもわからずにデモに出ていたんだわ。みんな好きな男と一緒にいるためだったの。闘争なんてそんなものなのかしらねえ」  確かにそんなものかもしれない。口にするとカッコ悪いから皆は言わないが、その程度の動機が、人をエネルギッシュに反日常的な行為へと駆り立てるのである。  私の場合も同じである。これといって好きな男がいたわけでもないが、私は退屈だったからやったのである。  だが、ふと気づいてみると、その闘争すら日常化していたのだった。忌わしい日常! 私が嫌悪をもよおして逃れてきたはずの日常生活はまた、そこでも繰り返されようとしていたのである。  それに気づいてから、私は闘うことをやめた。  戦争や祭りにいつしか必ず終わる時が来て、再び、ダラダラと続く退屈な日常生活が始まるように、非日常的な世界というものは長く続かないからこそ、私たちが必要とするのである。  波乱万丈の人生が望みだと言いきる人も、一生涯のうちで何年かは、心から安定した生活を求める。日常的で退屈な日々と緊張した非日常的な日々とが、七対三くらいの割合で訪れてくれれば、人は常に生き生きとしていられるのではないか。  言葉を変えて言えば「一生、平和に暮らしたい」と思っている人の胸の中に「平和すぎて退屈になったらどうしよう」という不安が必ずあるはずなのである。  日常性の陳腐さは私たち人間をイライラさせる。私たちは七分の平和と三分の戦争を常に求めている。安吾流に言えば、私たち自身が常にバクダンになる可能性をもっているということである。 二章 恋愛は共同幻想である  ホンモノの愛とニセモノの愛に違いはない  私は恋愛をするたびに、恋愛には形式などというものがまったく存在しないことを、いやというほど思い知らされた。  人間がおのおの、指紋や顔かたちが微妙に異なって生まれてくるように、恋愛も相手やシチュエーションや自分の年齢によって、かなり異なってくる。いや、それどころか、不思議なほどそれぞれの恋愛は千差万別で、よく考えてみると�一般的な恋愛�と呼ばれるパターンから、どれもこれも全てがはずれているのである。  この�一般的な恋愛�というのは言うまでもなく、私たちが勝手に創《つく》り出した想像の産物である。  たとえば、恋をしている相手に会うと胸がときめくものだとか、四六時中、行動をともにしていたくなるものだとか、相手を独占して他のヤツにとられたくなくなるものだとかいった、心理的なパターンがたくさんあるが、そんなものは冗談じゃないと思うことだってあるのだ。  私は惚《ほ》れたなあと思っている男にも、胸がときめいたり、四六時中、一緒にいたいと心から願ったりしなかったことがあった。でも、それでも私にとってみれば、�惚れている�のだが、悲しいかな、それは世間に通用する恋愛形式からすれば、恋愛ではなくなってしまうわけである。  それから、好きな男とは結婚したくなるものだとか、愛があれば貧乏も病気ものりこえられるものだとか、あげくの果てに、愛していればわが身を投げうって相手に尽くすことができるものだとか、おそろしく通俗的な言い方も横行しているけれど、これもまたふざけた幻想である。  私は結婚なんかしたくないけれど、燃えあがらんばかりに惚れたこともあるし、また、どんなに惚れても貧乏はいやだ、お金だけは欲しいと思ったこともあった。情死するしかないんじゃないかと思ったくらい夢中でも、相手が酔っぱらって吐いた汚物を、どうしても素手で始末できなかったこともあった。  このように、ちょっと例をあげても、私たちの頭の中にこびりついている恋愛の形式がどれをとっても、「これが真実だ」と言えるものが何もないことがわかる。  私たちの何となく規定している変愛の形式は、所詮《しよせん》どこかの安手のメロドラマや正月用女性映画、それに古今東西の文部省推薦恋愛小説などから仕入れてきたイメージをふくらませて、形づくっているものにすぎないわけだ。容姿端麗な美男美女がくりひろげる、甘ったるい�ホンモノの愛�の世界にうっとりとして、恋愛とはこのことなのだと、手前勝手に決めつけてしまうのは、万人がもっている浅はかな性急さである。  そんなふうに恋愛の形式を決めつけてしまうから、悲劇がおこるのである。正しい恋愛、まちがった恋愛といった言い方が、平気でまかり通る。勝手に自分が創り出したにもかかわらず、その恋愛幻想に従わないような恋愛をしている人を大声で糾弾し、非常識ものだとして抹殺しようとする。  抹殺される側はされる側で、本気で自分の恋愛がまちがった恋愛なのだと信じ、うなだれて悩み、苦しみ、自分は異常人格者なのではなかろうかと、馬鹿げた妄想を抱く。  恋愛にまちがっているも正しいもない。嘘の恋愛も真実の恋愛もない。そんなことは、すべて当事者が決める問題であり、よしんば、当事者が「これはホンモノの恋ではないのかしら」と迷っていたとしても、ホンモノかニセモノか、いちいち几帳面《きちようめん》に判定を下す必要はないのである。  思うに、男と女の間には「好き」と「嫌い」、あるいは「惚れている」と「惚れていない」という二つの感情の間に、さまざまな感情が蠢《うごめ》いているのではないか。 「好き」でもなければ「惚れて」もいないけれど、決して「嫌い」ではない場合だってある。「好き」か「嫌い」か、決定的に結論づけることができずに、曖昧《あいまい》なフワフワとした感情の波に乗りながら、居心地のいい思いをしていける場合だってある。  それに、ホンモノの恋愛は必ず、一対一の男女の間に存在するものだと、何となく規定されているけれど、複数の男(あるいは女)を相手に、おのおの、惚れていられる場合もあるのだ。  私はある雑誌の対談で、 「いつかベッドを共にするかもしれない可能性のある男と、ときどきお酒を飲んで、結局エンエンと何年もそんなつき合いが続いてしまって、何事も起こらないっていうのはいい」  と語り、若い女性読者に「私も同じことを考えている」と感激の手紙をもらったことがあった。  ベッドインの可能性のある男性と酒を飲むのは、どう考えてもその男が好きだからであり、やみくもに惚れてはいないけれど、その男は、何となく一緒にいて甘ったるい気分になれる相手なのである。明らかにその時、私に別に惚れている男がいたとしても、�甘ったるい気分になれる�という次元では両者は同じレベルにいるわけだ。  確実に�惚れている�と言いきれる男と、そうではないが好きだし、一緒にいて安らぎを覚える男との間には、何ら特別な差異はない。あるとしたら、常識的な恋愛観によって勝手に規定された、�ホンモノ�と�ニセモノ�の違いにすぎず、そんなものは何を称してホンモノだと言うのか、誰も答えられないのだ。  こんなところから、どんな人でも同時多恋愛ができるものだと言うことができる。できると言うより、誰でも常に同時に複数の人間に心を動かしているものなのだ。それを「いや、私はちがう。一人の男への真実の愛にだけ生きてるのだ」と気取って言う女がいたとしたら、私はとてもじゃないがマジメにうなずくことなどできないだろう。 『チッチとサリー』という漫画がある。チッチという、チビでヤセでおよそ色気と名のつくものとは程遠い女の子が、サリーという長身で足長のハンサム君に恋い焦がれるストーリーなのだが、夜も眠られぬほどにサリーに恋心をよせる彼女も、時として別のハンサム君にフッと好感を抱いてしまう。作者はそこでチッチに「いけない、いけない、私が本当に愛してるのはサリーだけなのに」と言わせているが、これなども一般的恋愛形式に無理矢理、自分をおしこめてしまおうとする典型的な女の例である。  純粋でホンモノの愛を捧げる人は常に一人であるべきで、他の男に目移りするのは罪悪だと、何の理由もなく信じてしまう、チッチのような女は結構、多いはずである。  しかし、どんなに惚れている男がいようが、人口の半分は男なのだ。惚れているAという男以外に、興味や関心をもつBとかCとかいう男がいても、ちっともおかしくない。むしろ自然だ。  ましてやAに対する情熱がホンモノで、BやCに対する情熱はニセモノである、と規定できる根拠はどこにもない。  私はメチャクチャに惚れている男がいても、甘ったるい気分になれる男と酒を飲んだりしていると、瞬間的ではあるかもしれないが、「ああ、この人にも惚れてるんだなあ」と思うことがある。それがその場限りのことで、翌日からは雑事に追われ、もともと惚れこんでいた男とデートを重ねているうちに忘れてしまえる感情であったとしても、その感情を抱いた瞬間の正直さ、素直さは否定しようがない。  正直さにおいては、本来の恋人に感じる種類の胸の高鳴りと全く同次元のものと言える。だから、私にはそのいずれをもホンモノ、ニセモノと決めつけることはできない。  こうした心の動きを語ると、短絡的発想の持ち主は「それはアンタが浮気性だから」とわかりもしない心理分析をするものだが、そう言い切る人たちに、この種の、どの恋愛パターンにも当てはまらない感情の波がまったくなかった、とは私は言わせない。  一体、誰が、この男に対する愛がホンモノで、他の男に対する愛はニセモノ、つまり、浮気の結果生じた、その場限りのものだとわかり得ようか。また、一体、誰が純愛と、魔がさした時に抱いた情熱の違いを、明確に語り得ようか。  その場限りのもの、魔がさしただけのものでも、その瞬間においては永遠の真実である。  私は瞬間的な心の動きにすぎないものでも、初めから否定してかかることを好まない。そこには理屈などでは語れない、もうひとつの自分の本能、嘘のない正直な欲望が隠されているからである。  それらに眼をつぶってまで、既成の常識的恋愛観に固執するのは、あまりに弱々しく、あまりに悲しい。動物以下である。何故なら、動物の世界では常識的恋愛などあり得ないからだ。獣たちはみな、本能に正直に行動する。肉の中からつき上げてくる不思議な衝動が、彼らに異性を求めさせる。  動物の世界を人間界以下のものだと考えるのは、私たち人間の傲慢《ごうまん》さ以外の何ものでもない。動物は自然の流れに忠実であるが、私たち人間は、ちっともそうではないのだ。自然の流れに逆らおう逆らおうとし、自然な欲求、自然な衝動を抑圧しよう抑圧しようとしているのが、私たち人間なのである。そこにつまらぬ常識が登場し、人間のオスとメスの関係は類型化させられてしまう。そして、同時に、ホンモノとニセモノ、本気と浮気、純愛と打算の愛などという簡単な表現で、すべてを言いきろうとする姿勢がまかり通ってしまうのだ。  恋愛というものは、私たちが思っているほど世間の常識に沿ったものではなく、むしろ自然発生的な心の衝動を、どうにかして世間に通用する形式の中に当てはめようとする、無駄な労力の要ることなのである。  たとえば、私の恋人が交通事故で両足を失ってしまったとする。私は彼にとことん惚れていたから、両足があろうがなかろうがまるで関係なく、彼につきっきりで看病するだろう。尿意をもよおしたら、何のためらいもなく彼の股間に溲瓶《しびん》をあてがってやれるだろうし、どこへ行くにも彼の車|椅子《いす》をおして行き、私が彼の足の役割を果たしてやろうとするだろう。  しかし、もしかしたら、私は無意識のうちに「この人以外の健康な男と楽しいひとときをもちたい」と考えるかもしれない。街角で肩をくみながら、ウィンドウショッピングをしているカップルを見て、心の底から羨しいと思うかもしれない。時には「この人さえいなければ、私には別な人生があったんだ」とまで考えるかもしれない。  それでも私は、それらのフッとわいた悪魔的感情を無理におし殺して、彼の前で笑顔をつくり、ひたすら彼を愛し、彼のために犠牲になることをいとわず、彼のためにとことん尽くしているフリをし続けるだろう。そして、世間に通用する、美徳としての恋愛形式を保っていこうとするだろう。  不具になった相手を、見捨てたくても見捨てないと断言し、そのように断言する自分を信じ、また相手にも信じられて、ともに錯覚を信じながらやっていくことが恋愛なのである。そしてそういう恋愛こそが、世間に認められる�ホンモノの恋愛�である。  しかし、私が不具になった彼を見捨てれば、世間は「ニセモノの恋愛だった」と非難し、私を袋だたきにするだろう。冗談じゃない、とそう思う。  私は世間の普遍的形式としての�ホンモノの恋愛�なんか信じたくもない。私が信じるのは自分自身の曖昧な心の動きだけである。ただ、世間に弁解したり、言いわけしたりするのが面倒だから、私は純粋に永遠で犠牲的な愛をつらぬいているフリをするだけである。  A・カミュの『異邦人』の中に出てくるムルソーは、母親が死んだ時に泣かなかったからといって、周囲の人びとに白い眼で見られた。彼は泣きたくなかったから泣かなかっただけなのに、世間では母親が死んだら泣くものだと決めつける。  恋愛の形式もそれと同じで、「愛せなくなったから見捨てた」とか「別の人を同時に好きになったから二人とも恋人にした」とかいうことは許されない。それらは、形式からはずれた、恋愛以外の何ものか——つまり、軽薄な非道徳な行為とされてしまう。  だが、厳然たる事実として、それらの心の衝動は私たちの中に存在するわけで、それは常識だの法則だのといった事柄とはまるで相容れない、言ってみれば自然の衝動である。  私はこの自然界に従った自然の衝動を、常に自分の中に見極めていきたいと思うし、またそうしなければ、実体のない世間が決めた、恋愛の形式化をうちこわすことができないのだと思う。  人を愛するのは自分のためである  私自身に関して言えば、私は恋愛否定論者ではない。むしろ、極論すれば、恋愛至上主義者に近いだろう。  私は常に男に惚れていたがる性分である。惚れられなくてもいい。惚れていたい。  惚れられた側の立場にまわるのは、決していやなことではないが、私にしてみれば、いつ気が変わるか知れない相手からの愛を、一身に受けてよろこびに満ちあふれているなど、たいした幸福ではない。  愛されることはともすれば、この居心地の良さが明日には終わるかもしれない、という不安と闘わねばならないから、苦痛にもなる。自分から惚れていれば心配はないのだ。自分の心とて明日には心変わりするかもしれないが、それは自発的なものであって、他者から受ける苦痛とはわけが違う。  だから、私は惚れていたいのだ。  たとえば仕事をしているとき、この仕事が終わったら、あの男とゆっくり過ごせるといったような、甘ったるい目的がないと、とてもじゃないが、仕事なんかやってられない。昨今は、キャリアウーマンだの何だのという言葉が大流行しているけれど、私は仕事だけをやってこの世の春、と言いきれる女がいたら脱帽する。私にとって、仕事と男に惚れることは常に同一線上にあり、そのどちらが欠けても、土台がしっかりしていない建物が、ちょっとした地震で崩れおちるように、私の精神生活はダメになってしまうのである。  男に惚れていれば、私の生活のリズムにはハリが出てくる。辛くて苦しい仕事が何日も続き、睡眠不足に悩まされ、胃の具合までおかしくなって、何もかも投げ出したいと思えば思うほど、私には惚れる男が必要になってくる。  時おり、その男と過ごしたひとときなどをセンチメンタルに思い描くのも清涼剤となるし、その男への嫉妬《しつと》、欲望などにがんじがらめにされている自分を知るのも、自虐的ではあるが結構楽しいと思うこともある。自分から惚れている時は、それらの一見苦渋に満ちた恋の病も決して不毛なものではなく、むしろ、生産的ですらあると自覚できるからおもしろいものだ。  惚れた男に会うために私は仕事をこなし、無為とも呼べる、日々の空間を乗り越える。惚れた男の存在があるからこそ、私にとっての生活が生まれてくる。  私が自分の手で得た収入は、その男と会う時に着ていく洋服代や、その男と会って話す時のネタにするための本代、資料代へとポンポン消えていく。これは完全に恋のための自己投資であり、まちがっても気取って、�仕事のための出資�などとは呼びたくない。  思えば、私は昔からそうだった。小学校のころ、何が楽しくて学校へ行っていたかというと、好きな男の子と会うのが楽しみで行っていたし、席替えがあるなどというと、今度こそはあの子の隣りに並べるかもしれないとウキウキし、席替えの日の朝など食べ物が喉《のど》を通らなかったほどだ。  中学、高校時代もまったく同じで、学校へ行けば好きな男に会えるから、話をすることができるから、という理由で学校へ行っていた。クラブ活動も何とか委員会もサークルの討論会も何もかも、私には好きな男がいなかったら色あせて見えたばかりか、無意味なものとして終わっていただろう。学校へは、勉強するため、人格形成のために行っていたなんて話はお笑い草だ。私は義務教育中も高校、大学もそんな文部省推薦のような気持ちで通ったことがない。好きな男と会うために通った……ただそれだけに尽きる。  前置きが長くなったが、私はこのように恋をし続けてきて、いつも考えていたことがあった。それは私の感じてきた相手の男に対する感情が、いわゆる�愛�と呼ばれるものとは違うのではないか、ということについてである。  小、中学生のガキのころは別にして、ある程度、自意識が発達してきた年代から考えてみると、私は常に、私自身のために好きな男の存在を必要とし、私自身のために惚れ続けてきたような気がする。 「愛のために死ねるか」だの「泥まみれの真実の愛」だの、くだらない恋愛の美学が、いつの時代でも大人になりきれない少女たちに拍手で迎えられていたけれど、私は惚れた男への愛のために死のうと思ったり、泥まみれになりながらも相手へ自己犠牲の愛をほとばしらせた、なんていうことは一度もない。  私が男に惚れるのは、もっともらしい愛を感じたからではなく、手前勝手な、ご都合主義的なエゴが働くからであった。言いかえれば、それは常に代用が可能な恋心であったかもしれない。  独りでいるのがいやだから、誰でもいい、誘ってほしいと思っていた時にたまたま誘ってくれた男を好きになったこともあるし、この男から養分を吸収すればずいぶん勉強になると確信しているうちに、好きになってしまったこともある。  それはAでもよくBでもよかった。ただ、私が恋愛幻想を抱いて、偶然、好きになった男のことを、よくあるフランス映画やしゃれた恋愛小説の主人公のように、「この恋は一世一代の恋だ」と錯覚してしまえる人間だったから、それらの恋はハタ目からも情熱的恋愛に見えただけだ。  だから、私には相手への愛情のために身を滅ぼすなどあり得なかったし、�一目惚れ�などということも、まずなかった。  元来、惚れる男の美醜にはあまりこだわらないほうで、最低肉体的条件としては私より背が高いこと……というくらいしか望まないのであるが、男の肉体の美しさや目のエロチックな輝きだけに、ただの一目でマイってしまうなど、信じがたい話だと思う。一目惚れして相手のすべてを正当化し、自分のデッチ上げた架空の人物に情熱を燃やしては、「この愛のために死ねる」とたわ言を吐く連中の幼児性にはついていけない。  一目惚れであろうが、一年つき合ってやっと感じた愛であろうが、どんな愛でも私たちには、自分のために相手を必要としている、という恐るべきエゴがあることを忘れてはならないのだ。  相手のために相手を愛するなど欺瞞である。私たちは皆、私たち自身のためだけに人を愛するのだ。 「愛してる」「好きよ」などと言いながら、もしかしたら私たちは、そう告げた相手を存分に利用しているかもしれない。  この男は顔も草刈正雄ばりだしスマートだから、友人に紹介しても鼻が高いだろうとか、逆に、この男は頭は良いが醜男で口下手だから、美人の友達に紹介しても寝取られないだろうとか、この男の交友範囲は広くていろいろ偉い人を知っているから、何かと役に立つだろうとか、この男のオヤジさんは大富豪だから、オヤジさんが死んだらちょっとした金持ちになれるだろうとか……。そうしたモロモロの打算を働かせているかもしれない。  打算的愛には終わりが早く来るなどと言われて、その不純さを口汚なくののしる人が多いけれど、とんでもない話である。打算なくして、エゴなくして、どうして人は人を愛せるのだろうか。  私がずっと小学生のころから人を好きになってきたのも、人を好きになることで自らの胸にポッとともった灯りが心地よかったからである。人生に、その日その日の暮らしに、相手の男と会えるという目的がほしかったからである。もちろん、純粋に相手を思っていた部分はあるが、それは先に述べたように独自の個人的な原因不明の情熱にすぎず、決して相手に無償の愛を与えようとした結果のものではない。  惚れること、愛することというのは、その対象をあくまで自分に有利な対象に保ち続けたいと願う、手前勝手な期待にすぎない。  好きな男と何もかも投げ出して、恋の逃避行に走るのも、相手に対する愛があるからではなく、その男と居心地のいい思いをしたいというエゴである。好きな男の病気が悲しいのは、相手への純粋な思いやりなどではなく、彼が入院してしまったら、前のように楽しくデートすることができなくなるから淋しいというエゴである。好きな男が他の女と寝たことに嫉妬するのも、自分かわいさのためである。  私たちがよく口にする「彼ととてもうまくいってるわ」という言葉も、単に相手の男のエゴと自分のエゴがたまたま、うまく歯車が合っているというだけのことで、何も「愛し愛されている」なんていう大袈裟《おおげさ》なものではない。 �一目惚れ�と同様、�運命的な出会い�などというのも、�運命によって恋が与えられた�と錯覚して陶酔しているだけであって、実際は、その相手と自分のために都合のいいロマンチックなドラマを仕立てて、有利な状態にもっていきたいとするエゴである。  アンドレ・モーロワというフランスの偉いおじさんが著書『幻想論』の中で次のように言っている。 「自分のさまざまな情念で彩りながら、われわれはたえずひとつの世界を創造している。恋する男は、自分の愛する女性と一緒に見た国や光景に関して、並はずれた追憶を残している。これも幻想なのだ! その国は醜悪で、光景は平凡だったのだが、しかし情熱に燃える男は、空色の眼鏡をかけて、心から世界は空色であると断言する人間に似ている」  そして、このおじさんは、恋の幻想、つまり、恋の錯覚こそが私たちの生活を豊かにしてくれると断言する。恋の幻想には価値があると言い切る。  確かにその通りである。錯覚であろうがなかろうが、我を忘れた恋をしたことのある人間は、一度も恋をしなかった人間に比べて、人間的資質というか、その感受性の豊かさ、人間らしさにおいて、はるかに優れている。  しかし、私は、恋がいかに幻想であり、自分のための感情でしかないか、ちゃんと理解している人は、さらにそれより優れていると思うのだ。さらに人間らしいと思うのだ。  何故なら私たちは愛の幻想を認めたうえでも、なおかつ、愛の対象を求めていく愚かな存在であるからだ。�わかっていてもやってしまう�あの幼児的な本能の衝動を否定せずに、自己満足へと導こうとする人は、私から見るともっとも人間的で自然界に近い人だ。  自己満足のため、自分のエゴのために人を好きになることをやめない私たち人間の悪しき現実を、一生懸命隠そうとして、さまざまな教訓やモラルや宗教が生まれた。地球上に存在する言葉の中でもっとも抽象的だと思われる�愛�という言葉が美化され、純化されて語られた。  よく、「好きな言葉は何ですか」と聞かれて「愛」と答えるジャリっ子タレントがいるけれど、「冗談はおよしよ」と言いたくなる。多分、このジャリタレは愛し愛され、アナタとなら地の果てまでとかなんとか、おめでたい想像をしているのだろうとおかしくなる。  世の教育も「愛」を高貴で美しいものに仕立てあげ、夫婦愛、恋人同士の愛、それに親子の愛をさまざまな形で「この世にまたとない美しい感情」であると謳《うた》い上げる。  夫が妻のために骨身をおしまず働くのも、老後、この女に面倒をみてもらえるからという悪しきエゴがあるからかもしれないし、妻が夫のために尽くすのも、今夜、ベッドで私を満足させてもらうためというエゴがあるからかもしれない。親が子を愛するのも、決して無償の犠牲的愛ではなく、うまく育てあげていいところへ就職させ、老後の小遣いをガッポリもらいたいというエゴのためであるかもしれない。  それらのエゴを一時に白日のもとにさらし出すのは、文化の退廃であると言わんばかりに、国をあげて、人類をあげて、�愛�の気高さは謳い上げられる。そして人びとは何だかわからんが愛は素晴らしいものだと思いこみ、愛した相手に尽くすことを美徳だと信じている。  みんな自分のためでしかない他人への愛は、美徳もへったくれもないのである。それは言ってしまえば狂気に似た自己愛であり、世間が唱える愛の幻想ともっとも遠くかけ離れたところにある、インモラルなエゴである。  その事実に目をそむけて、愛は自己犠牲の上に成り立つと錯覚するから、さまざまなトラブルが起こる。「これだけ尽くしたのに裏切られた」と語気も荒く怒りの涙にくれたりする。  愛は自己犠牲ではなく、まぎれもない自己愛なのである。 三章 妻にならないことの選択  愛とは誰かを泣かせることで成り立つ  私の知人に、大変美しくて品の良い老婦人がいる。この人は現在、結婚した娘夫婦とその孫三人に囲まれて、平和に静かに暮らしているが、その前半生は波瀾《はらん》にとんでいた。  彼女は、京都にある芸者置屋で産声をあげた。つまり、彼女の母親が芸者だったのである。今でこそ私生児とか未婚の母とか言っても、別段、珍しくも何ともない世の中になっているが、当時は父《てて》なし子と呼ばれて、とてもまっとうな人生を送れない烙印《らくいん》を、生まれた時から押されていたようなものだった。  当然のことながら、彼女は十五歳のころから、芸者の道を歩み始める。並みはずれた美貌《びぼう》の持ち主であったから、多くのごひいきの客がついた。幼いころから、男と女の、陰に隠された色恋|沙汰《ざた》を見聞きして育った彼女は、性的にも精神的にもかなり早熟だった。そして、十八になるかならないかで客の一人と大恋愛に陥る。  相手の男は年が親子ほどにも違い、もちろん、妻も子もある既婚者だった。なかなかの美男子で、常に浮いた噂《うわさ》の一つや二つ、はなやかにつきまとわせていた男だった。しかも、京都でも名の知れた大実業家。ふところ具合も十分である。多くの町の女たちや芸者連中が彼を狙《ねら》っていたのだが、男は他の女に目もくれず、彼女にぞっこん惚《ほ》れこんだ。  彼女は、いわゆる�妾《めかけ》�となって、町はずれの豪華な邸宅に移り住むことになる。  そこで、男との間に一人の女児をもうけた彼女は、一応、幸福だった。男はこれ以上不可能というところまで、優しい心配りを見せてくれた。生まれた子供も非常に可愛がってくれた。  だが、男はあくまでも彼女を妾にしておきたがった。本妻に対しては、事業をやる上での共同出資者という弱味があったので、頭があがらなかったのである。男はぬけぬけと、「妻を愛してはいないが捨てることはできない」と語った。その実、彼女のもとを訪ねて来ても、必ず、夜中には本宅へ戻っていった。  彼女はそんな彼を半ば恨めしく見送ったのだそうである。本妻の握っている金の力で、男が子供のようにしおらしく、すごすごと引きあげていくのを見るのは、たまらなくいやだったと言う。  ところが、そんなある日、男は病に倒れた。そして彼女が看取る間もなく、冬の底冷えのする寒い朝に、男は呆気《あつけ》なく他界してしまった。  その通夜の席で、本妻とともに彼の枕べで号泣した彼女は、本妻から意外なことを知らされた。  湯水のように金を惜しみなく使っていたはずの男が、莫大《ばくだい》な借金をしていたというのである。なんでも、事業が急にうまくいかなくなって、本宅の方では本妻が質屋通いまでしていたということだった。心配かけまいとした男の配慮なのか、そうした一連の出来事は、まったく知らされずにいたので、突然の死と彼の本宅における窮乏状態をまのあたりにした彼女は、大きなショックを覚えた。 「でも、私は自分で稼げる女だったということを、そこで思い出したのです」と彼女は静かに言う。  彼女はそれまで少し遠ざかっていた芸者の世界にもどり、子供を知り合いの人に預けながら、毎晩、狂ったように稼ぎまくった。そして、その金をほとんど、死んだ男の妻へ手渡した。 「意地だった」のだそうである。妾ではない、一人の女であることを証明するための意地、愛し合った男の家族に対しても人間的な優しさを見せてやりたいという意地、そして、彼の借金を肩代わりすることにより、過去の自分と訣別《けつべつ》して新しい人生に出発するのだという意地———。  三年足らずで彼女は男の残した借金を全て返済した。おまけに男の本妻との間にできていた、三人の子供の学費まで工面し、本妻は涙ながらに彼女に礼をしたという。 「その時、彼の妻と呼ばれる女がひどく小さく見えましたの」  老婦人は静かに話し出した。 「私は完全に勝利者の立場にいました。妾が世をしのび、人をしのんで、日陰の身であるなんてとんでもない。妾であろうが本妻であろうが、世間に勝てるか勝てないかは本人の生命力次第ですよ。私が芸者をしていたからこそ、あの男の借金を肩代わりできたんだと言う方もいますけど、たとえ私が町工場の工員であっても、働きまくってお金を作っては、本妻のもとに運んだでしょうねえ」  ほほほほ……と優雅に笑って、濡《ぬ》れ縁のむこうに拡《ひろ》がる和風庭園に目をやる彼女の老いた姿に、私は女の�凄《すご》さ�というものを見た気がした。  彼女はここに至って、完全に�結婚しない愛�における勝利者たり得た。そして、その誇りたかき勝利の笑みは、他のどんな女の色恋における勝利感にも劣らない、一種崇高なものを感じさせるものだった。  六十をとうに越した女の人の口から、若いころの純愛物語をセンチメンタルに聞こうとは思わないが、この人は私と会うといつも、「愛した男の妻に金を工面してやった」ことだけを、妙に強調して話してくれる。  男が用意してくれた京のはずれの古い家で、手慣れぬ手料理を作りながら、いそいそと男の訪問を待っていたこととか、男との間に子供を作った時の話とか……そうした想い出話はほとんどしない。  彼女の紅《べに》をささない白い口唇から、歌うように流れてくるのは、いつだってその男の妻と世間に対する勝利感ばかりだ。  結婚しない愛——つまり、今に言う�不倫の恋�の中で求められるべきは、この勝利感ではなかったかと、私はつくづく思う。  妻子ある男との恋は、�不倫�であるが故に強烈に燃えながら始まり、そして、�不倫�であるが故に、また、人の世の道徳に負けて終わりを告げるのだ。  その、人の世の道徳とやらに負けたくないと思ったら、知らんふりを決めこんで好き勝手にふるまうか、それとも彼女のように逆に倫理にかなった立場にいる女を援助することによって、心密かに勝利感を味わうか、二つに一つしかない。  かつての『青鞜』で平塚らいてうとともに活躍した伊藤野枝などは、前者である。  彼女はダダイストの作家、辻潤の女房でありながら、女房持ちの大杉栄に惚れ、恋愛に陥る。大杉は大杉で、女房の他に神近市子という愛人がいたのだが、結局は野枝をとる。偉大なる四角関係(辻潤もいれると正確には五角関係)の中で、世間の糾弾も恐れずにいとも軽やかに過去を捨てて、大杉のもとに走った野枝の無鉄砲な生きざまは見事である。自分の情熱、自分の信じるものに対して、まっしぐらに突き進んでいく彼女のような女の前には、もう、不倫も何もあったものではない。  思うに、野枝は意外と計算高くて、もし大杉とうまくいかなかったら、何事もなかったかのような顔をして、もとの亭主のところへ復縁を迫ったかもしれない、と考えられる。彼女にとって、もとの亭主は彼女の出発点であり、安らかな寝息をたてて眠れる安息所であったのだ。スタートして途中でくたばってしまったら、また出発点にもどればいい……とそんなふうに思えるタイプの女だったかもしれない。  そして、そうした野枝のような女には、人の世の道徳以前に、まず確固とした揺るぎない自己があるのだ。その自己が道徳と非道徳の世界を一緒くたにしてしまう。その混沌《こんとん》の中から選び出したものが、たまたま、世間的に非道徳なことであったとしても、彼女はおかまいなしなのだ。道徳には価値がなくなり、彼女が素手でつかみとった生き方だけが価値をもつものになってくる。  そこで、彼女は世間や人並みな人生哲学にお尻を向けて、ひたすら勝者の道を歩くのだ。  一方、先に紹介した老婦人は、野枝のような、不倫に対する新しい自分なりの価値観はもたず、あくまでも自分を妾と見なして、本妻に施しをすることによって、意地でも勝利感を味わおうとしている。  いずれにしても、私にはあっぱれなやり方だと思われる。昔、ある女優が不倫の恋仲にあった男の死を伝えられて、「悲しいとか絶望したとかいう以前に、まず、嬉《うれ》しかった」という手記を書いていたのを読んだことがあるが、それも、ある意味では勝利の喜びであろう。  誰でも一度は、愛する者の死を願ったことがあるはずである。人の感情というものは激しければ激しいほど、両極端に揺れ動くのだ。愛している気持ちがつのればつのるほど憎しみも増し、ふと殺したくなったり、自分から別れを宣告したくなったりする。それが、相手に妻や子供がいたりしたら、なおさらのことである。  相手の男だけではなく、その男の妻や子供にまで心のエネルギーを奪われ、疲れているのだ。あらゆるしがらみに縛りつけられながら、愛情は時おり、極端に愛とは正反対の方向へ動いていく。  ところが、相手が死んでしまえば、悲しみのあとには自由がくるのだ。それまで考えられなかったほど、大きく拡がる自由の世界が、眼前に現われてくる。男からも、その男のかかえこんでいた妻や子供からも解放されるのはその時だ。  先の老婦人がかつて、死んだ男の妻に稼ぎの大半をつぎこんだのも、彼女自身が解放された自由な感覚をもてたからだろう。勝利感はそこに始まる。  私は結婚できない男との愛に悩み、傷つき、疲れ果てた女の姿を見るのが何よりも嫌いだ。悩み苦しむのだったら、そんな男との恋はやめてしまえばいい。愚痴を言うだけの恋など不毛である。 「こんなに愛し合っていても結婚できないのよ」などと溜息《ためいき》をつく女の心の奥に何があるのかというと、それは男に対する純粋な情熱でも何でもない、単なる、世間的なおママゴトとしての結婚という形式に対する憧《あこが》れだけである。  彼女たちが欲しいのは相手の男ではなく、相手の男が提供してくれる家庭生活であり、周囲公認の味気ない夜毎のセックスだけなのだ。さもなくば、男のパンツを誰はばかることなく洗って、太陽のもとに干せる、妻という名の女中の見せかけだけの幸福なのである。  彼女たちが�勝とう�と思っているのは、相手の男の妻の座に対してであり、役所のうす汚れたファイルの中にごちゃごちゃとたまっている、現在の妻との結婚届に対してなのだ。決して、自分自身に勝とうとはしていない。  妻ある人との恋にも、独身者との恋にも、何ら分けへだてなく自己の心の高ぶりを感じ、妻子ありだからといって何ら特別に悩まずに、積極的に男に惚れて何かを吸収できる女なら問題はない。  ところが、男が家に帰る後ろ姿を見送りながら、「ああ、私は何故、こんなに不幸なの」と涙するのなら、それはもう、ただの結婚志願者——それも恐ろしく狂乱的な——になりきっているにすぎない。そうでなければ、自分に勝とうとするだろう。自分の勝利感を求めて、一歩を踏み出そうとするだろう。  その方法が、伊藤野枝のごとき、道徳を超えて世間の凡人をあざ笑うやり方でもよし、老婦人のように、本妻に金を恵んでやるやり方でもよし、はたまた、相手の妻を追い出して、男を奪ってしまおうとするやり方でもよし、何でもかまわないと思うのだ。  どんなやり方を使ってでも、人は気持ちよく生きる権利がある。どんなに他人をだましても裏切っても泣かせても、自分が居心地よく生きる場所を勝ちとる権利がある。そのとき、人は他の誰の生を生きるのでもなく、自分自身の生を生きるのだ。  そこにはもう、法律や世間の約束事やモラルは入りこむ余地がない。法律も道徳も、かつて、個人のために存在したことがないのだ。社会の掟《おきて》や約束事は社会の維持、国や世界のとどこおりない保全のためにこそある。  たいして罪の意識もないくせに、我が恋を自ら�不倫�呼ばわりし、悲劇のヒロインになるくらいだったら、初めからそんなものは恋とは呼ばない方がいい。罪の意識を抱いたかのように錯覚し、不道徳なことをしているかのように思いこんだその時から、恋の炎は必要以上に燃えあがるものだ。  その錯覚、思いすごし、自己陶酔におぼれきって、悲しい恋の結末を指でなぞるようにして生きていくのは、茶番というものである。  本当は妻と呼ばれる、その人の同居人の手から男を奪いたいんでしょう。ただそれだけなんでしょう。あなたのプライドを満足させれば十分なのでしょう。  ならば勝たなくてはいけない。男に、妻の座にふんぞり返っている太った女に、世間に、そして何よりも自分自身に。どんな卑劣な手段を用いても�不倫�を正当化し、自分の中での通りすぎるべき、ひとつのプロセスに仕立てあげなければ意味がない。  時おり、私は、先の老婦人の満足そうな、しわがれた声で語られたかずかずの言葉を思い出す。 「私は勝ちました、私は勝ちました」——彼女はこう繰り返す。世界で言われているところのさかさまの倫理に、彼女は確かに勝ったのである。  鬼のような女になれるエネルギーを  妻子のある男と恋仲になり、定期的に情事の時間をもつ女は、ほとんど決まってこう言う。 「あ、時間だ、もう帰らなくちゃと言ってそそくさと起き出して、下着をつけ、ズボンをはき、背広をピシッと着こんで、鏡に向かって頭をなでつけている男の姿を見るのは、たまらなくいやだわ。そして、まだベッドの中にいる私に、半ばすがすがしい顔をして軽くキスをし、『じゃあ、また電話する』と言うなり、クルリときびすを返してドアの向こうに去っていく、その後ろ姿に、腹がたって、淋しくて、コップか何かをぶつけてやりたくなる」  私はそんな話を聞くたびに、一昔前の映画『ジョンとメリー』を思い出す。日本語にすれば�太郎と花子�とでもいうような、まさにありふれた、どこにでもいる男と女のラブストーリーなのだが、劇中、ミア・ファロー扮《ふん》するメリーが、妻子ある男との情事のあとに、たまらなく淋しそうな表情を見せる一シーンがある。  メリーは大きなベッドに、事後の疲れた顔をして横たわっている。男は時計を気にしながら彼女の前で、まるで朝の出勤前のようなあわただしさで服を着る。メリーは不満げな表情で、それでも精一杯の作り笑いを見せながら、男を見守っている。服を着終えた男は、彼女のところに来て、優しいキスを一つ残し、ドアのむこうに消えていく。その背広の後ろ姿と、残された若いひとりぽっちの女の大きく見開かれた虚ろな目。  待つ女、待たされている女、淋しさを味わいつくしている女と、そして、残酷なまでにそんな女の存在を許し、妻と愛人の両極を往き来する男。 「結局、捨てられるのは私の方なんだから、あんな男とは一日も早く別れなくてはいけないと思うけど、やっぱり好きなのよね。妻にならなくてもいいから、愛人のままでいいから、私はあの人と会っていたいって、本気でそう思ってしまうの」と、自称�愛人�は目を潤ませて語るのだ。私に言わせれば、そんなものはいじけた乙女のセンチメンタリズムである。  何が「愛人のままでいい」なのか、何が「妻にならなくてもいい」のか……。もっと正直におっしゃい。「妻にならなくてもいい」のではなく、本当は「私は妻になどなりたくはない」のではないか。  男の汚れた黄色いパンツを洗ったり、朝早く起きて男のために朝食を作ったり、髪の毛ふり乱し、美容院へ行く暇もなく、一日中、男との間に頼みもしないのに自然発生的にデキてしまった子供の世話に走り回り、夜は夜で機嫌悪く帰ってくる男のために、眠いのをこらえて一人、ポツンと古い週刊誌などをめくりながら、遅いご帰館を待つ始末。それが、まごうことなき、妻の役目だとしたら、そんな役割は負いたくない、という気持ちが心のどこかにありはしないか。  いつも美しく化粧し、テキパキと社会に出て仕事をし、目を輝かせながら人生を期待に満ちて生きるのは�愛人�の方ではなかったか。男を待ち、男の帰っていく後ろ姿を痛む胸をおさえて見送るのは、もしかしたら�妻�の方ではなかったか。  私が妻子ある男と同じベッドに入っていたとしたら、むしろ、男がそそくさと着替えて帰っていくのを、喜びと感謝の気持ちをもって見送るだろうと思う。惚れた男であればあるほど、そうなるだろうと思う。  私は少なくとも、男と女が三角関係になった時、どんな場合においても、一人の人間を争う他の二人は、男であれ女であれ、五分五分の原則を守るべきだと思っているのだ。  たとえば、一人の男(女)を二人の女(男)が争うとする。妻(夫)と愛人(情夫)、恋人と恋人、何だっていい、一人の人間に二人の異性がみっともなくもくっついたとする。その場合、「私(僕)よりオクサン(亭主)の方を愛しているのでしょう」とか「私(僕)よりA子(A男)の方を愛しているんでしょう」などと、鬼気迫って問いただすなど、おカド違いもはなはだしい。人が誰とつき合おうと、誰を好きになろうと、そんなことを止める権利は誰にもないのだ。  そのかわり、人は争い合いながら、各人の領域を守ろうとする権利をもっている。それが五分五分の原則なのだ。  つまり、私が妻子もちの男に惚れたとして、私の取得分というのは、その男のロマンの部分になってくる。 「愛してるよ」というくすぐったい言葉、おやすみのキス、優しい会話、思いやりのある態度、学生時代にもどったようなアカデミックな討論、そこから生まれてくる相互の新しい発想法……等々。私は年かさの男から貪欲《どんよく》にむさぼるように、彼の経験や彼の知識、教養、彼の感性を盗む。  私はしかし、彼のパンツは洗わない。彼のためにメシたき女にもならない。彼の財布をのぞきこんで家計簿と照らし合わせ、「今月、やりくりが苦しいのよ。洗濯機《せんたくき》もこわれてしまって買い替えなくちゃいけないし」などと愚痴を言ってみたりもしない。彼の眠る布団を干したり、彼の汚れたワイシャツをクリーニング屋のお兄ちゃんに頼む、ということもしない。  そうした一連の日常生活の、現実の部分は、これ全て、彼の妻の取得分。つまり、彼の妻の領域であるのだ。そうしたものに私は憧れもしなければ、ましてや「彼のパンツが洗えるなんて」と羨ましくなんか、まったく思わない。中年妻子もち男の日常現実生活の部分は、男の妻に全権を委任する。おまかせする。「あとは頼みましたよ」と保育園の保母さんにでも言うつもりで、ニッコリ笑顔でお願いする。  こうでなくちゃ嘘だ。だいたい、すべてが欲しいだなんて、ガキのないものねだりと同じである。男の優しい愛の言葉と、鼻毛を抜いて股をボリボリとかいている男の日常生活の�まったくあるがままの�姿……この両方が欲しいだなんて、馬鹿も休み休み言えというものである。  日常生活を何年もともにし、なおかつ、会えば胸が高鳴り、そっと腕を組む瞬間やくちづけのその時に、目もくらむほど新鮮な喜びを覚えるなんていう人がいたら、お目にかかりたい。  日常生活というものは、男女等しくもっているもので、社会的人間としての結構な社会人ぶった仮面をつけて、翌日も、人の前に顔をさらせるようにするための休息の時間なのである。お面をはずした素顔には馬鹿馬鹿しさや可愛らしさこそあれ、見ている者の胸を高鳴らせるような、飛び立つ鳥の雄々しき魅力はない。  そのどちらをとろうと各人の勝手だけれど、どちらかをとったら、もう片方はどうあがいたって、捨てなければやっていけないのである。  この五分五分の原則、二者択一の法則に従えば、私など「彼の帰っていく背広の後ろ姿」に、三流女性映画風の涙を見せるだなんて、ちゃんちゃらおかしくてお話にならない。帰っていく男は、物理的に日常生活の中へ仕方なく戻っていくだけの話だ。あとはその男のカアチャンなり、別の同居人なりにお任せすればいいではないか。 「じゃあね」と手をふる女もまた、そこで�取り残された�のではなく、男と同じように日常生活に戻るのだ。大きく伸びをし、歯を磨き、シャワーを浴びて、ベッドの中で好きな本を読む。ボーイフレンドの二、三人に電話をする。彼らのうちの誰かとこの次のデートの約束をする。  妻にならない自由を知っている女は、この時、中年男に対して、とても残酷な仕打ちを秘密裡のうちに行なっていることにもなる。それは、ある意味で何よりも痛快なことでありはしないか。  坂口安吾の短編小説に『青鬼の褌《ふんどし》を洗う女』というものがある。五十をとうに越した、妻子もちの初老の男の愛人の話なのだが、気まぐれで男に媚《こ》びるのが、ことのほかうまい彼女は、その男のもとから、あちこちに飛びたっては他の若い男と浮気をする。そして、退屈でつまらない浮気をしては、再び枯れた男の肉体の側に舞い戻ってくる。  彼女は若い男に肩を抱かれたり、手を握られたりしても、別にふりほどこうとはしない。ふりほどいて「あら、いけないわ」とか「キャッ、やめて」と貞淑な女ぶるのが面倒臭いのである。そうすると、男どもは飢えた狼のように、彼女の身体を求めてくる。彼女は「そんなにしたいんだったら、勝手にやればいい」と思って、半ばシラケた気持ちで身体を開く。  そんな彼女の性格を初老の男はよく知っていて、彼女の好きなようにさせている。そのうえ「もし君が結婚したくなったら、いつでも相当の金をつけて結婚させてあげるよ」とまで言う。彼女は悲しい気持ちで「何故」と問う。もう私は浮気なんか全然たのしくないんだと言う。すると男はこう答えるのだ。 「私なら、君のように言うことができる。しかし君のような若い娘がそんなふうに言うことを、私は信じてはいけないと思うのだよ。私は君が本当に好きだから、私は君の幸福を祈らずにいられない。私のようなものに束縛される君が、可哀そうになるのだよ」  彼女はそう言う男を見ながら、男のことを�鬼�だと思う。彼女に去られることを怖れているからこそ、去られる前に自分から逃がしてやろう、そしてその結果生じた、自分にとって淋しい地獄のような孤独を甘んじて受けよう、人間ってのはそんなものだ、などと考えている�鬼�。ものわかりが良さそうにふるまって、その実、孤独を甘受するしかないと諦めている哀れな�鬼�。  でも彼女は、そこで彼女自身のことを考えるのだ。自分が死ぬ時、どうしても一人でいるのはいやだ、と考えるのだ。誰でもいい、青鬼でも赤鬼でもいい、どんな時でも鬼でも化け物でもいいから、男と呼ばれる動物と一緒に死にたい……。そう彼女は願う。  だから彼女は、初老の男に結婚をすすめられても動じない。所詮《しよせん》、この人には今のところ、私しかいないのだと思っている。そして彼女には、青鬼赤鬼……いっぱい鬼がいるのだ。そのどれかの鬼とくっついてしまうかもしれないし、誰ともくっつかずに初老の鬼の咳《しわぶき》を子守歌に、うつらうつら暮らしていくかもしれない。  いずれにしても退屈だけれど、男という名の�鬼�がいつも周囲にいてくれればそれでいい……と彼女は考える。  この女こそ、私たちの恋愛感覚の代弁者であったような気が、私はしている。  たまたま自分の側にいる、気に入った男に妻子があろうが、年が親子ほど離れていようが、そんなことはもしかすると、私たちの人生に何ら影響を及ぼさないのかもしれない。私たちはきっと、常に男という�鬼�を必要としていくのだ。そして、その�鬼�のぬかみそ臭い女房になることを未来|永劫《えいごう》、拒否する権利は誰にだってある。  好んで自ら女房になりたがる�女鬼�がいるのと同様、女房になりたがらずに�鬼�を利用し、�鬼�のいいところだけを吸収していく、また別の�女鬼�がいたっておかしくない。  帰っていく�鬼�を「じゃあね」と見送る�女鬼�。どちらも所詮、�鬼�なのだ。互いを指さしあって「アンタが悪い」と言わなくとも、運命だと嘆かなくとも、どっちもどっちだということを忘れてはならない。  マルキ・ド・サドの『閨房哲学』という本の中に、ウージェニイという若い娘が、人に頼んで母親を目の前でいためつけてもらうシーンがある。死にそうになっている母の姿を見て、彼女は思わずこう叫ぶのだ。 「ここで死なれては困るわ、あたし。この夏、喪服を着なければなりませんもの。せっかく美しい服をつくったばかりなのに!」  極論すれば、不倫の恋の相手が、自分のベッドの上で死にかかっている時、チラッとでもこの種の思いが頭をよぎるような、鬼のような女でないと、鬼のような男と差し向かいで、恋愛ごっこなんかしていけないということである。 四章 愛の呪縛《じゆばく》からの解放  嫉妬のもとは単なるエゴだ  私はとても嫉妬深い人間である。そして、そのことを素直に認めるのに、ずいぶん長い時間がかかったことを、白状しなければならない。  以前、私は嫉妬している自分を見ると、死んでしまいたくなるほど自己嫌悪にかられた。そのころの私にとって、嫉妬という感情は生きている限り、決して認めたくない、いやらしい下卑《げび》た原始的な本能丸出しのものだった。  恋人とレストランで食事をしていると、そこに偶然、彼が日頃から気に入っていた女が現われる。彼女は私の仲の良い友人。私は笑顔で彼女を迎える。彼の顔をチラリと見ると、彼は明らかに嬉しそうに彼女を眺めている。三人の会話には何ら不自然なところはなく、彼女も私と彼とを、一組の愛し合った恋人同士として認めてくれている。だが食事も終わり、彼女と別れると途端に私は不機嫌になるのだ。顔がこわばり、彼が何を話しかけてきても、突っぱねる調子に変わってしまう。  それは明らかに嫉妬のせいだった。彼にも、そして突然現われた彼女にも、何ら責任のない、理不尽な私だけの嫉妬心だった。だが私はそれを、決して嫉妬であるとは思わなかった。思いたくなかった。そんなにみっともないことがあってたまるか。  私は自分の不機嫌を他のせいにする。さっき食べたソースが辛すぎて、口の中がピリピリしているせいであるとか、明日の朝、早く起きなければならないせいだとか……。  当時の私は人に「あなたは嫉妬深い?」と聞かれると、大袈裟《おおげさ》に首を横に振ってみせて、「いやあねえ。そんなことあるわけないじゃないの」と答えていた。  本当にそんなことあるわけがなかった。少なくとも私の建前上は。実際は毎日毎日が嫉妬の連続だったのに。  私の嫉妬は表面に表わさなかっただけ、内部で薄汚なく発酵した。猜疑心《さいぎしん》もそれに並行して増した。そして、そんないやらしい自分に絶望して、私は嫉妬をおこさせる対象から逃げようとするのだった。だが逃げても逃げても、私の中に陰気なヒステリックなジェラシーが潜んでいる限り、無駄なことだった。物理的に相手から離れても、私は離れたところで一人で、嫉妬をおこさせた相手に、憎しみと愛情を感じ続けていなければならなかった。  何故なんだろう、と私は思った。一体、何だってこんなに悩むんだろう、あんなやつ放っとけばいいはずなのに……。  そこで私は気づいたのだ。私は男に悩まされているのではなく、自分の嫉妬心に悩まされていただけなのだということを。  嫉妬とは、相手を私物化できなかった時におこる感情である。散歩していても、食事をしていても、レコードを聴いていても、何をしている時でも私の存在だけを見つめ、私のことだけを考え、私の言うことだけを聞いていてほしいと願う、実に馬鹿げた自己中心的な妄想が現実にならなかった時に、ムラムラと湧きおこってくる不満の念である。  相手を独占するために、相手の人格を無視してもいとわない。街ゆくグラマーな女の胸に見とれる自由も、ちょっと気に入った女とお茶を飲みに行く自由も、何もかも認めたがらない。彼は彼ではない、私のものであるとしたがる、この幼児的なないものねだりこそが、嫉妬となって表われてくるのである。  そこに気づいた時、私は「なあんだ」とつぶやいて笑った。別にいやらしい醜い感情でも何でもない。あたりまえのエゴでしかないじゃないか。  だから私は今、自分が嫉妬深いということを認めるのが、ちっとも恥ずかしくない。嫉妬とは相手に対する自分のエゴ、負い目を感じる必要のまったくない、あたりまえの人間的感情にすぎない。  だが、エゴなのだからといって安心して放置しておくわけにはいかない。自然な人間感情であるがゆえに、嫉妬は時として処置不可能な魔物と化す。  私は多くの女たちに「どんな時に嫉妬する?」と聞いてみた。  恋人が他の女と寝たとき、自分が何を話しかけてもうわの空でいるとき、パブで隣りに座った美しい女と楽しそうにしゃべっているのを見たとき……といろいろあった。多くの場合は、恋人である男と自分以外の女に対する嫉妬だったが、中には「恋人が私と一緒でない時にすごしている時間」に対する嫉妬とか、「恋人が仕事上どうしても話さねばならない相手(男女を問わず)」に対する嫉妬というのもあった。  私の場合、嫉妬するのはたいてい、たいした事態ではない時である。たいした事態ではないからこそ、私は引き裂かれるような嫉妬心を覚えるのだ。  たとえば、恋人と大勢の人間の集まる場所へ行ったとする。劇場でもパーティ会場でもパブでもどこでもいい。そこで私たちは一人の女に会う。以前から知っている女、私は会うのは初めてだけれど、彼からよく話を聞かされている女。私は彼女に紹介され、彼女の方も「お話はかねがねうかがっております」などと礼儀正しく笑いかける。  彼は彼女を見ている。彼女も頬《ほお》を紅潮させながら私を見、そしてゆっくりと視線を彼の方へ向ける。二人の視線が一瞬交錯する。私はその時、本能的にその場を離れ、少し遠くから二人を見る。二人はあまりしゃべらずに見つめ合い、笑い合っている——私が嫉妬を感じるのはそんな時だ。何故なら、そこで二人は確実に、私が入りこめない世界を作り出しているからだ。  どう転んだって、彼は彼女と寝てはいないことがわかっている状態、寝ていないどころか、キスだって握手だってしていないことがわかっている状態。なのに彼ら二人は心をときめかせ、未知の可能性をもって視線を交わしあっているのだ。すべてはこれからなのだ。初めての握手も初めてのキスも……。  私にとって愛する対象が他の女と寝たか寝ないかということは、たいして嫉妬の材料にはならない。そんなものは、私がわからなければいいことだ。私の目の前で寝ない限り、私の知ったことではない。  だが、すべてがこれから始まるかもしれないという、恋の予兆に胸をときめかせている恋人を見ることは、私をズタズタにさせる。握手もキスもまだしていないからこそ、私は彼に嫉妬するのだ。その胸のときめきの中で、私という存在が完全に失われているから、私は彼に嫉妬するのだ。  これもまた怪物的な私自身のエゴである。  相手の心を鎖でしばりあげることなどできないとわかっているくせに、しばりたくて仕方なくなってしまう、勝手なエゴである。そのエゴが高じると、次第にエゴをひきおこした相手の男や、彼に色目を使った自分以外の女をぶっ殺してやりたくなる。その種のエゴを満足させるためには、相手の死を待つしか方法がない。  昔、何の映画だったか、タイトルもストーリーも忘れてしまったが、ラストのあたりで、嫉妬にかられた女が夫を銃で撃ち殺したあと、ほーっと一息、安堵《あんど》の溜息《ためいき》を吐くシーンがあった。  パトカーのサイレンの音が聞こえ、警官がドカドカと入ってくる。女はおとなしく連れ去られていく。横たわる血まみれの死体。それにふっと一べつをくれながら、女は安心しきって、解放感に満ちあふれて、それまで見せたこともない平和な顔つきで、足取りも軽やかに警官たちに腕をつかまれながら家を出ていくのだ。  嫉妬を生むエゴからの解放は、相手を殺すことによってしか成就できない。 「何もそこまでしなくとも」と思うのだったら、この、私たちの中に執拗《しつよう》に顔をのぞかせるエゴを、いま一度、確認して笑いとばして、逆に手なずけてしまうことしかないのではなかろうか。  フランスの作家、アラン・ロブ=グリエという人の作品に嫉妬を扱ったものがある。邦題はそのものズバリ『嫉妬』であるが、原題は『La Jalousie』(ラ・ジャルジー)。ジャルジーとはフランス語で風よけ、日よけ、つまり、ブラインドをも意味する。  登場人物は四人。A…という女とフランク夫妻、それに終始一貫、A…とフランクの行動を見ている語り手であるA…の夫。このA…の夫は物語中、一度も自分の存在をあらわにしない。ただ、ひたすら、ブラインドの中からじっと外をうかがうように身をひそめて、自分の妻と他の男の言動を観察している。妻が夕食の時、椅子《いす》をどのように並べたとか、どんな服装でいたか、フランクという男がどんな風にコップを口にもっていったか……そんなことばかり、繰り返し繰り返し観察する。  そして最後まで、妻と男が何らかの関係を結んだということは明らかにされない。つまり、おそらく何にも関係は持たれなかったのだ。ただ語り手である観察者が、全てに疑いをもっていただけなのだ。  疑いをもちながら、こうして妻の一挙手一投足を冷ややかに見つめ続ける観察者に、私はぞっとするほど、嫉妬する人間の冷徹さを思った。語り手は自分の妻を、まるでそこらに散らばる小石のように突き放して見ている。ブラインドの中からじっと眺め続けている。  ブラインドを閉じてしまえば、私たちは何も見なかったと同じになるのだ。ただし、見なかったからこそ、余計勝手な想像をして、嫉妬の情念に悩まされることになる。冷ややかに嫉妬の対象を眺め、自分自身の心のブラインドを開け放してしまわなければならない。そして開け放した結果、姿を表わしたエゴの塊まりを、何とかなだめすかしていかなければならない。  愛する人は他の人のもとに行ってしまいそうだけれども、幸い自分には今日中にやってしまわなければならない重要な仕事がある……というようにして、エゴの方向をそらしてやることも必要だ。エゴというものは不思議なもので、方向をそらしてやると、今度はそちらの方へ突進していく。それまでのことは半分忘れてくれる。  たとえば私の場合。原稿用紙が一冊置いてある。ここに今夜中に、たくさんの文字を書いてしまわなければならないとする。私は男に嫉妬して怒り狂い、疲れ果て、あげくに愛されなくなったことを感じて淋しい思いに浸っている。だが私は、どうしても今夜中に、この原稿用紙のマス目を埋めてしまわなければならない。私はペンを取り書き始める。頭は混乱しているが、感情と切り離されたところで手が勝手に動き出す。何を書いているのかわからない。でも自分の手は何かを書いている。少なくとも書かなくてはならないとして、ペンが勝手にすべり出していく。  次第に私は、その勝手に動いているペンに神経をとらわれ始める。意識が少しずつ現実に戻ってくる。嫉妬のエゴは意地に変わっていく。そして私は頭の中で「この悲しみはこの仕事が終わってから考えよう」と思い始めるのだ。  そしてしばらくすると、私のエゴは冷徹に嫉妬を眺めてくれるようになる。 「大騒ぎするのは馬鹿げている。明日になったら、慈母観音のような笑みを浮かべて、あの男の前に立ってみせよう」と私をほくそ笑ませる。  カーメン・マックレエの唄に『Who do you know I saw today, my dear?』という曲がある。直訳すれば『あなた、今日私が誰に会ったか知ってる?』というようなもの。同棲している恋人同士か、それとも夫婦かわからないが、二人の男女が一日を終えて自宅で夕食のテーブルについている。男はワインの栓を抜き、女のグラスに注ぎこむ。乾杯をしてから、女は一日あったことをいつものように話し出す。 「今日は午後から車で町に出て、いつもの駐車場に車を入れ、そしていつものカフェーでコーヒーを注文したわ。いい天気で皆、幸せそうで、私は隅の席に座って人びとを見ていた。しばらくするとカップルが入ってきた。私のすぐ近くの席につき、二人はコーヒーを注文した。本当に愛し合ってるような二人で、それはそれはお熱かったのよ。私の席から彼らの席はよく見えたけど、彼らの席から私は見えなかったみたい。ねえ、本当に幸せそうだったわ、その二人。それでねえ」と女は一息つく。「そのカップルのうち、男性の方は誰だったと思う」そして間髪を入れずにマックレエは、ふりしぼるように唄う。「you……」。  嫉妬は所詮エゴなのだから、こんな風にたんたんと語らなくてはいけない。悲しんだり傷ついたり、裏切られたと思ったりする前に私たちがすべきことは、冷ややかに自分のエゴを認めて、冷ややかに相手を突き放してやることだ。  突き放した結果、私たちには必ず笑顔がもどってくる。どうせ束縛することのできない、理解することもできない相手なのだ。どう頑張ったところで、相手の心をつなぎとめておくことは不可能なのだ。自分が自由なように、相手も自由であるということを認めた時、私たちはホッとして笑ってしまうのだ。  別れを食って生きていこう  グラシェラ・スサーナの唄に『愛したら最後』というものがあって、彼女はその中で、「あなたなしでは生きていけない」と繰り返す。私はその、いかにも歌謡曲の歌詞にありそうな、めめしいセリフを聞くたびに、うんざりさせられる。  本当に�あなた�なしでは生きていけないのだろうか。�あなた�と別れたら死ぬしかないのだろうか。  愛の対象を失ったことにより、生きていくための力強さを、一時的に失うことは確かだろうが、それはあくまでも一時的なことだ。どんなに深く愛した人を失っても、人はやっぱり生きていく。死んだようになっても生きていく。そしていつかは必ず立ち直る。  悲しいのは愛する人との別れではなく、命をかけてまで愛したと断言できる人との別れにも、ちゃんと自分からピリオドを打って、再び歩き始めていく私たち人間の生命力である。  私は�生涯でただ一度の大恋愛�をして、その相手と別れねばならなくなり、断末魔の叫びをあげ、死ぬの生きるのと大騒ぎした人が、その後何年かの間に再び�生涯でただ一度の大恋愛�をして幸福そうに笑っている姿を何度も見た。本人は、前の恋人と別れた時の傷は永遠にいやされないなどと、たまに気取ってみせるのだが、別れの深刻劇が一時的なものであったように、その人の傷もまた一時的なものにすぎないように思われる。  悲しい別れは人の心に永遠に悲しい傷跡を残すものだと、多くの人は信じているようだが、私に言わせれば、それは幻想というものだ。心に傷を負ったという幻想にとらわれている人は、ナルシシスムに陥っているにすぎない。ちょうどそれは、戦場で足を怪我した軍人さんが、当時の武勇伝を忘れたくないために、とうの昔に完治した足の傷跡が、冬になると痛み始めると錯覚しているのと同じだ。  昔の恋の傷跡を背負って生きていくのも、それはそれで趣があっていいのだろうが、願わくば、趣味程度にしてもらいたいものだ。実際は別の恋に出会うと、昔の恋はアルバムの中の変色した一枚の写真にすぎなくなる。いくらいとおしいと思ってなでさすったところで、その写真はもう何も語りかけてこない。記憶の底に埋めこまれるだけ。  生きていくということは、まず第一に生活していくということだ。どんなに愛した人と別れても、泣こうがわめこうが、おかしな話だがオシッコもウンチも出るのだ。そのためにはトイレに行かなくてはならない。そのトイレにトイレットペーパーがなければ、マーケットにでも買いに行かねばならない。そしてレジで財布からお金を出して渡さねばならない。  それだけではなく、朝起きて顔を洗ったり、歯を磨いたり、軽い食事をとったり、今まで通り仕事に出かけ、満員電車で中年男のニンニク臭い口臭を吹きかけられながら、家と仕事先の往復を耐え、風呂に入り、身体を洗い、寝る前にカーラーを巻きつけ、電話がかかってきたら「モシモシ」と言い……そんなふうにして生活していかなくてはならないのである。  愛の対象を失ったからといって、何もかもがイヤになり、学校にも会社にも行きたくないと、一日中ベッドにもぐりこんでいたところで、電話の応答に「モシモシ」と言わないわけにはいかない。トイレに行かないわけにはいかない。どんなに社会生活を拒否しようと、私たちが生きている限り、生活している限り、私たちの社会や世界は、確実にそこに存在しているのだ。  街を歩けば、二人でよく行った喫茶店、二人で散歩した公園、二人でロードショーを観に行った劇場、二人でひやかして歩いたブティックなどが目の前にあらわれる。辛い、悲しい、もうあの人はいないと思って涙ぐんだって、喫茶店も公園も劇場も冷ややかにそこにあるだけ。何も語りかけてはこない。知らんふりをして、ソッポを向く猫のように取りすまして、いつものようにそこにあるだけ。  手前勝手に思い出の糸をたどって、それらの建築物や大地に涙を流す、センチメンタルな一人の女に構わずに、冷酷に無関心に世界は目の前に拡がっている。  それが現実というものだ。まごうことなき現実というものだ。この冷酷非情な世界の片隅で、「あなたなしでは生きていけない」などと叫んでみたところで、誰も聞いてはくれない。誰も何も構っちゃくれない。社会も世界も、そして無限に拡がる宇宙も、一人の女の別れの悲しみなんぞに、慰めの言葉を吐きかける余裕などありはしないのだ。  野呂邦暢氏の短編『日が沈むのを』の中に次のような一節がある。   「あの夕日、あれはわたしのものだ。夕暮の菫《すみれ》色の空、これもわたしの属する世界の一部だ。暮れてゆく空にのぼる街の音、燈火のきらめき、子供たちの喊声、足音、遠くを走りすぎる電車の響き、これらはみな世界がわたしに対して無関心であるしるしだ。   そう、ついに私は発見した。   (おまえのことなんか構っていられないよ)   とひややかに言い放つ世界に対して、わたしもまた同じ無関心を装えばいいわけだ。つまりそういう取りひきなのだ。裏切った恋人はただ忘れてしまえばよい。決して幸福を与えない世界に対しては、わたしも世界の外にでもいるような冷静にそっけなくふるまえばいい。距離が生じるとにわかに世界が好ましい細部を現してくる。今まで見えなかった微妙な事物が目に映るようになってきた。   たとえばこの夕日である。   わたしが世界の外に立ちさって、すべての事物に無関心でいようと決心したとき、夕日は無限の優しさをこめてわたしを見まもっているように思われた。おまえはそこにいる、わたしはここにいる……と夕日は囁きかけ、うなずいているように見えた」  この短編の主人公は若い女である。女は恋人と別れた。いや正確に言えば、恋人が女のもとから去っていったのだ。それこそ「あなたなしでは生きていけない」と叫びたくもなる、深い落胆の毎日を通り過ぎて彼女は結局、先述したような�世界の無関心�に気づく。 「おまえのことなんか構っちゃいられないよ」  と言い放つ世界を見下すように、今度は自分が世界のそとに立って、冷静に世界を眺めてやろう……と彼女は思う。そしてそう思った途端、世界は彼女に優しくなる。  夕日、山々の稜線、道ばたの小石、二人で行ったカフェテラス、二人で抱き合った公園のベンチ……すべてはあるがままにそこにあった。そして彼女もまた、あるがままにそれらを眺められた。そのことに気づいた彼女はもう、「あなたなしでは生きていけない」などと叫んだって、何も助けてはくれない世界の冷たさに構わずに、世界よりも冷ややかに、自分と自分を捨てた恋人を眺められる女になっていたのである。  私は学生時代、非常に親しくつき合っていた一人の男と別れた。互いに合意の上だった。  私たちはいつも通っていた渋谷の喫茶店で、いつものように待ち合わせ、いつものように紅茶を飲み、いつものようにおしゃべりして、そして外に出た。日が暮れかかっていて勤め帰りの会社員や、これから遊びに行こうとしている学生たちで、街はごった返している。皆、楽しそうで平和そうなのに、私たちだけが黙りこくっていた。幸福な人びとの群れの中で、私たちだけが異邦人のように浮きあがっていたかのようだった。  いつものように国電の駅のところまで来て、私たちは向かい合った。もうそれが本当の最後だった。私は無理して笑顔を作り手をあげた。 「さよなら」  彼もひきつったような顔で、同じ言葉を返してきた。私はくるりと背を向けてゆっくりと改札口を通り、振りかえらずにホームへ通じる階段をあがる。何か大切なものを失った気持ちがこみあげてきて、今にも爆発しそうになる。  電車がホームにすべり込んできて、たくさんの人びとを吐き出した。ダークスーツのサラリーマン、買い物帰りのおばさんたち、美しく着飾った娘……。  中に乗りこんだ私は、一つだけ空いていた席を見つけて、そこへくずれるように座った。周囲には、電車が吐き出した分だけの人びとが、再び群がってきた。  静かに動き出す電車。そして暗いホームを出た途端に、車内一杯に入りこんできた夕日。  私は気がつくと泣いていた。涙がポロポロと頬を伝って落ちた。皆が不思議そうに私を見ていた。吊り皮につかまった男たちが、新聞から目をあげて、好奇心たっぷりに見下ろしている。隣りに座っていた若い娘も、遠慮がちに私の方をチラチラと見ている。  私はバッグの中からハンカチを取り出して涙をふいた。その時、私の斜め前に、母親と並んで立っていた五歳くらいの男の子が、大きな声で母親にこう聞いていたのが耳に入った。 「ねえ、ママ、あの女の人、なんで泣いてるの?」  なんで泣いてるの、なんで泣いてるの……。そうだ、他人にとっては私のこうした別れの悲しみなんて、この種の素朴な疑問にしかならないんだ。私は人びとの群れる電車の中で、たとえようもない孤独感を抱いたが、同時にこれが現実なんだと改めて思った。  私はそっと車内を見回した。みかん色の鮮やかな夕日のさしこむ小さな空間の中で、いろいろな人たちが息づいていた。私のまったく見も知らない人たち。他人。非情で冷酷な世界そのもの。たった今しがた、惚れた男と別れてきたばかりの女を生かすでなく、殺すでなく、放ったらかしにする世界。  私はまた、この世界の中で世きていくんだろうと思った。しばらくは死んだように、だが少しすると、とても生き生きとして……。出会いと別れを繰り返しながらこの世界、この冷ややかな大宇宙の中で生活し、悩み、判断し、たった一人で生きていくんだろう。  私の場合、別れの後にはほとんど必ず解放感があった。どんな仕方で別れたにせよ、私は色恋で傷を負ったという意識をもったことがない。周囲の人たちに言わせると、それはとことん惚れなかったからだということになるが、惚れつくせば別れは必ず傷跡となって残る、というのは嘘っぱちだ。  いちいち恋愛のたびに傷を負っていては、人は一生の間に身も心もズタズタになってしまう。繰り返して言うが、恋の後の傷なんてものは、本人が錯覚で思いこんでいる幻想にすぎない。  どんなに惚れた人と別れようが、別れた後には一つの経験を経て、熟した自分がありのままに残っているのだ。別れの辛さは傷にはならない。むしろ栄養分となって蓄積されていく。  恋だ愛だと抽象的な、わかりもしない言葉を操って、自分を一つの役割の中にはめこむのはやめにしたい。傷ついたという幻想は、そこから生まれてくるのだから。  別れた後の解放感は、むしろ傷ついたという錯覚よりも辛い。また一人にかえってしまったという孤独感が、この世界にたった一人で生まれて、たった一人で死んでいく人間の、一生の淋しさに拍車をかける。愛した相手を失った悲しさは、いつしか一人ぽっちで世界に立ち向かわなければならない、自分の悲しい運命に対する自覚に変わっていく。  でも、それは仕方のないことだ。一人ぽっちであれ何であれ、それが現実なのだ。ただひとつ忘れてはならないのは、私たちは失った相手に背を向けることはできても、この寂寞《せきばく》とした世界に背は向けられないということだ。自分が愛の対象を失おうと何をしようとお構いなしに、世界は私たちの目の前に、確かに存在している。そして私たちは、そこから目を離すことはできない。  次の出会い、次の恋が始まっても、そしてまた次の別れが訪れてきても、私たちは私たちの喜びや悲しみを「おまえのことなんか構っちゃいられないよ」と言い放つ世界の中で、自分一人で処理していかねばならないのだ。  その事実に目をそむけていたら、やっぱりいつまでたっても、「あなたなしでは生きていけない」で終わってしまう。 五章 女のダンディズム  主体的に選んだものには裏切られない  女性誌の読者投稿手記などを読んでいて、まず間違いなく出くわすのは、「私はだまされた」という一文である。あるいは「裏切られた」「捨てられた」というような、もっともらしい被害者意識まる出しの言葉の羅列。  女性誌に限らず、最近では大の男のヤニ臭い口から、「俺は彼女にだまされた」などというセリフがポンポン飛び出してくる始末。この�だまされた�という言葉を聞くたびに、私は鼻白む思いがする。  男と女の関係の中に、果たして�だまされる�と言い切れることがあるだろうか。 �だます�とは、一つの契約をあらかじめしておきながら、その契約に故意に違反し、相手を陥れることに尽きるのだ、と私は考える。  たとえば、資本家と労働者の関係である。労働者側が一定の労働力を売って賃金を得ようとする場合、資本家は月づき、いくらいくらの報酬を支払うと約束する。実際に支払われた額が、約束額と異なっていた時、労働者側は、「だまされた」と言うことができる。  あるいはその逆で、一定の労働量を提供せずに、賃金だけフトコロに入れてトンずらした労働者を指し、資本家は「だまされた」と言うことができる。  もっと身近な例をとると、結婚した夫婦が、ハネムーン先で一つの契約をしたとする。夫はタクシーの運転手なので、いつ事故にあうかわからない。その万が一の時のために、妻名義で一千万円の保険金がおりてくるよう、即刻、生命保険に加入するべし——夫はこれを快諾し、夫婦の間で契約がなされる。  そして十年後、夫は大事故にまきこまれて死亡。保険金のおりるのを唯一の頼みの綱にしていた妻の前に、名義が夫の愛人になっていた文書が届けられる。この場合も、妻は契約不履行の夫に「だまされた」と言うことができる。  つまり、�だます��だまされる�は、事務的な契約不履行が生じた際のセリフであり、決して男と女、ひいては人間同士の感情の中に生まれるべきものではないのだ。  以前、某男性タレントが、年若い恋人を作って週刊誌にたたかれた時、その男の妻である女性が記事の中でこう語っていた。 「私はだまされていたんです。夫はいつも私に対して優しかった。私しか愛していないんだと思っていた。それなのに……。私はだまされ続けてきた女なんです」  まったく笑止千万のセリフである。彼女は彼にどのようにだまされたというのか。金か、それとも結婚時の「浮気は絶対にしない」という口約束に対してか。もし、その種の口約束をし、「万一、浮気をしたら夫は妻に、妻の要求するだけの財産と生活費を与えること」という契約をしたのであったら話は別で、この男が契約通り、財産を妻に与えていないことに対して「だまされた」というセリフは通用する。  だが、この二人は記事で見る限り、そうした契約は一切していない。浮気をしないと誓ったのも情熱にかられて、男が十五年前に口走っただけのことであって、そんな言葉を胸にしまいこんで�契約�した気になっている妻は、まるで茶番劇の主人公に等しい。  だいたい、夫(妻)が、他の女(男)に情を移したことに対して、「だまされた」という言葉を使う人間が多すぎる。「だました」方を悪者に仕立てあげ、「だまされた」自分を被害者にして、どうしようもなく淋しい孤独感をいやそうとする、その初歩的な生存のテクニックは私をぞっとさせる。  どっちもだましてなんかいないし、だまされてもいないのだ。誰《だれ》が好きこのんで、自分を頼りにしてくる女(男)を冷ややかに切り捨て、淋しい思いをさせることをするだろう。ただ、一人の男(女)に別の愛の対象ができただけだ。その新しい愛にどうしようもなく魅《ひ》かれていく、自分自身のエゴに勝てないだけだ。  男と女、人間同士の間の感情は、文書や紙きれなんかで、永遠の忠誠を契約、捺印《なついん》するようなわけにはいかないのである。たとえ、したところで、そんなものには一文の価値もない。「私は今後死ぬまであなた様ひとりを愛し続けます」などという文書に署名、捺印した人が、その翌日、他の人にめぐりあって、新しい恋の中に飛びこんでしまう。その場合、誰も契約違反だとして、その人間を糾弾することはできない。  人の感情は一生涯、揺れ動き、山になり谷になりして、激しい折れ線グラフを描いていくものだ。誰も、その人の感情の推移を束縛したり、非難したりする権利はもっていない。たとえ、婚約者であろうが、配偶者であろうが……。 「だまされた」と言う人は、相手の甘い愛の言葉を信じ、優しさを本物だと信じ、自分はこれほど愛されていると思いこんでいたにすぎない。信じることは勝手だ。愛の絶対量を過信することも勝手だ。それはそう思いこむ側の自由である。  だが、その思いこみがある日、突然、疑惑に変わり、果ては誤解だったことが明らかにされたとしたところで、思いこんでいた当人は相手に「だまされた」ことにはならないのである。盲目的に愛を信じ、相手を信じていた自分が、「間違っていた」だけのことである。  ある女性が先日、元気のなさそうな声で電話をかけてきた。彼女が日頃、「大の親友」と呼んでいた同性の友人から突如、絶交を申し渡されたのだという。原因は、いとも幼稚な�恋人争奪戦�だった。  電話をかけてきた女性をA子、彼女の親友をB子としておこう。A子とB子はともにシナリオライターになるため修業中。二人は毎日、シナリオライター養成所に通い、同じ講義を受けていた。そして、そこの講師である一人の青年に、同時にイカレてしまったのである。  そのイカレ方はA子よりB子の方が強烈だった。A子には、他に親しくつき合っていたボーイフレンドがいたが、B子は俗に言う�男ひでり�の状態だったのである。B子は積極的に青年を誘い、A子も交えて三人でよく食事をしたり、酒を飲みに行ったりしていた。B子にしてみれば、ボーイフレンドのいるA子よりも、自分の方が青年の相手としてふさわしいと、単純に思いこんでいたらしく、A子が�ぬけがけ�をするなど思いもよらなかったのだと思う。  そんなある日、B子は風邪をひいて、一日だけ講義に欠席した。青年は何故か、その日、講義が終わるとA子を食事に誘った。B子が不在であることを気にしながらも、悪い気はしなかったA子は彼に従った。  食事をし、酒を飲み、男と女二人きりということも手伝って、青年とA子は甘ったるい気分になっていく。そして、その晩、A子は青年とベッドをともにした。 「別にB子に悪いという意識はなかったわ。私は彼と特定の関係になるつもりはなかったし、ただ一夜の思い出としてしまっておくだけで十分だったのよね。確かに私は彼のようなタイプが好みだったし、一緒にいて幸福だったけど、B子ほど夢中ではなかったもの。大人の男と女にありがちな、一晩だけの情事ですんだわけよ。ところが……」  ところが、ひょんなことから、A子が青年と二人きりでデートしたということを、B子が知ることとなったのである。風邪をひいて寝ていたB子が、その夜、何度もA子の家に電話をし、留守なので不審に思って翌朝訪ねてきたところで、A子が青年に車で送られて朝帰りをしているのを目撃してしまった、というわけだ。  B子は逆上した。A子に青年と何があったかを詰問した。 「あなたは彼と寝たのか寝ないのかって、そればかり聞くのよ。まるで夫の浮気を調べあげる、鬼のような女房みたいに怒り狂って、ね。私はもちろん、寝たなんて言わなかったわ。いくらB子にでも、そんなことを正直に告白する義務はないもの。そうすると、B子は半狂乱になって言ったの。『あなたは私を裏切ったのよ。私はあなたにだまされたのよ』ってね」  あげくに絶交宣言。A子はB子の狂乱ぶりにぞっとしたのだという。  このB子という女、私は直接知らないけれど、何という幼稚な女であることか。A子が一晩をともにした男が、彼女の夫であるならまだしも、ろくにつき合ったこともない、単なる学校の先生なのだ。その男と自分の親友が、独立した男と女の判断のもとに、一晩過ごしたところで何故、彼女は�裏切られ��だまされ�たことになるのだろう。  A子が彼女とそれこそ文書をかわして、不可侵条約でも結んでいたのならそういうことも可能だが、A子とB子とは�親友同士�であったとはいえ、何らその種の契約はしていなかったのだ。  A子が情交を結んだ相手が、たまたまB子の好きな男だったというだけで、B子は裏切られただの、だまされただの、泣きわめく権利はないはずなのである。  いい年こいたおとなが、「裏切られた」と言っては半狂乱になることほど、みっともないことはない。自分がひとつひとつを選択し、判断し、主体性をもって生きていくように、他の人たちもそうやって生きているのだ。他人の人生における選択を妨害し、あげくの果てに、「それは裏切り行為だ」として中傷することは誰にもできない。  A子はB子を裏切ったのではなく、A子は、A子の選択のもとに生きただけだ。それが結果的にB子を悲しませることになったとしても、B子はその結末を甘受するしかないのである。  残酷なようだが、B子がその試練に耐えないで、裏切られたと思いこむのだとしたら、彼女はこの先、何度も何度も、おそらく永遠に、人の裏切りの責め苦に出会わねばならないだろう。  私も今までずい分、人を裏切ったり、裏切られたりしながら生きてきた。そして、そのたびに私は、�裏切り�という言葉の存在自体に疑問を覚えるようになっていった。文字通り、�裏切られ、だまされ�た時の口惜しさと悲しみは、私自身が誰かを致し方なく�裏切ったり、だましたり�した時の悲しさと酷似していた。  いずれにしても、一人の人間がどう頑張ろうと、周囲のたくさんの人びとを、一度に幸福にはできないのである。「あの人こそ私を幸福にしてくれる」と信じこんだところで、それは得手勝手な願望にすぎない。  逆に今、これをすれば誰かを裏切ることになる、とわかっていても、そうしなくてはいられない時もある。  どちらの場合も人間は悲しい。そんなことに気づいてから、私は�裏切り�などという言葉が使えなくなってしまった。私はこれからも、勝手に人を信じたり、期待したりしていくことだろう。そして、その信頼や愛情の深さが世間で言う�裏切られた�かっこうで、とどめを刺されることもあるだろう。  だが、それも仕方のないことなのだ。私が自分に嘘《うそ》をつかず生きようと思ったら、誰かを傷つけていくしかないように、私が信じた相手もまた、そうやって生きていくのだ。そのことに対して声を荒らげて「裏切られた」「だまされた」と叫ぶのは醜悪なことである。  私は自分自身を裏切りたくない。ただそれだけだ。  シモーヌ・ド・ボーボワールの小説に『他人の血』というものがある。第二次世界大戦下におけるフランスで、ドイツ占領軍を国境外に追い出すため、抵抗運動が盛んに行なわれていたころの話である。その抵抗運動における指導者であるジャンという青年と、運動に加わっていたエレーヌという女性が物語の主人公である。  エレーヌはジャンへの愛情のために、健気《けなげ》に行動するのだが、彼女は本来は政治にも戦争にも直接興味のない女だった。その彼女がジャンのためだけに、運動の中で命を投げ捨てる。  ラストの部分で瀕死《ひんし》の床にある彼女にジャンはこう言う。 「君が、こんなになったのは僕が悪いせいだ」  すると彼女は厳然と否定するのだ。 「どうして悪いの? 私があなたを選んだのよ。やり直すとしても、私はやっぱりあなたを選ぶわ」  私は彼女の、この最後のセリフが好きだ。自分以外の誰にも……たとえ最愛の恋人にすら自分の人生の選択を委ねず、何がおころうとも、結果がどうなろうとも、自分の手でつかみとってきたものとして、自分の責任のもとに納得できる、この女の生き方は素晴らしい。  このセリフの前に�裏切り�や�だまされた�という言葉はもろくも崩れおちていくのである。  サラリとしたつきあい方にみる誠実さ  以前、私はつき合っていた男に、何もかも包み隠さず話してくれと要求されて、辟易《へきえき》したことがある。断わっておくが、その要求は、私が何か彼に大きな嘘をついていて、それが発覚したからというものではない。日常的なこと、たとえば、朝何を食べたか、昨夜は何の本を読み、何を感じたか、そんなことを嘘いつわらず話してほしい、という要求なのである。  それが彼のひとつの愛情表現だったのであろうが、私には何故、彼が何もかも知りたがるのか理解できなかった。  朝トイレに行って出たウンチが何色だったかとたずねることは、つきつめて言えば、相手の人格そのものを完全に掌握したいという願望の表われに他ならない。ひとつの、自分とはまったく異なる人格を、丸ごと自分のものにしてしまおうとする欲望は、愛情というより、私にはこうるさいだけだった。  そりゃあ私だって、惚《ほ》れた相手の何もかも知りたいと思う。ウンチの色、オシッコの色、奥歯に虫歯が何本あるか、今日私とデートするため待ち合わせ場所に来る間、何人の女に視線をやったか……等々、何でも知りたい。  だが、ウンチやオシッコの色はともかくとして、彼が何人の女に目をやろうと、私と会っていない時、どんな悪《あ》しき浮気心をおこしていようと、それは私には関係のないことなのである。  彼のもつ世界を、たとえ恋人である女であっても犯すことはできない。彼の人格は彼が自分で作り出してきた、彼の財産なのであって、決して恋人や妻のものではないのである。  ある時、私は仕事で地方へ行かなくてはならなくなった。打ち合わせや仕事終了後の観光も兼ねて、私は三泊四日のスケジュールをとったと彼に告げた。知りたがりやの彼は、根掘り葉掘りたずね始める。  どこのホテルに泊まるのか、スケジュールは詳しく言うとどうなっているのか、誰と同行するのか——。  ハイハイ、ホテルはどこそこで、電話番号は何番で、スケジュールはこうこうこうなっていて……といちいち説明していた私は、急に馬鹿らしくなってきた。何だって、そう法廷での検事の尋問のように、私の行動予定を聞きたがるのか、私はあなたに尻尾《しつぽ》をつかまえられた動物園の猿ではない……。 「誰と行く?」と彼は黙りこんだ私に再度質問した。 「あなたの知らない人とよ」  私は意地悪くそう答えた。それは嘘ではなかった。同行する人の名前は言えても、その人は彼のまったく見も知らぬ人だったのだから、名前を語る必要はなかった。  彼は怒った。そんな言い方があるかと私をにらみつけた。俺はどこの誰と行くのか知りたいだけだ、君を心配する俺の愛情に答えようとする誠意が、君にはないのか、とも言った。  私はその時、およそ初めて彼に失望した。そんなところで、誠意などという言葉を使ってほしくなかったのである。  私が彼に対して抱いている誠意があったとしたら、それは自分の行動を逐一、彼に報告する態度ではなく、もっと別の形で表われるものだった。やみくもに真実をばらまいて、それで相手を納得させるなんておこがましい限りである。  彼が私の、隠さぬ真実を求めている気持ちはわかっていたが、それに答えないのも私の一つの誠意だった。親しくなればなるほど、相手の誠意を求めたがる彼のなれなれしさに、私は逆に突っぱねることによって、自分の彼に対する誠意を表わしてみたかったのである。 「うるさい誠実より、洗練されたお世辞のほうが、いつも私の心に触れる」と書いたのは三島由紀夫である。私もまったくその通りだと思う。  誠実さや誠意を求めたり、売りものにしたがる人たちには、節度というものがない。裸の真実をさらけ出すことを要求してくる。さらけ出してみたところで、時には自分が思いもよらなかった、相手のいやな面を知る羽目に陥るのだろうが、それでも嘘でごまかされているよりはいい、と彼らは思っている。彼らにとってみれば誠実さとはそういうことなのだ。  だが洗練されたお世辞や、気のきいた嘘を言ってくれる人間の方がずっといい。恋愛関係にある相手、あるいはごく親しい人たちにこそ、私はそうしたことを望む。『親しきなかにも礼儀あり』とは、昔の人はよく言ったもので、聡明《そうめい》な人ほど、親愛の情の中に、一定の距離をおいてくれる。男女間の場合、一定の距離をおく人のことを、「本当に愛していないからだ」と馬鹿げたことを言う人種もいるが、まったくあべこべである。深い愛情があればあるほど、人は愛の関係の中で、自ら節度を保とうとするものだ。  私の恋人がある晩、私以外の女性と二人きりで酒を飲みに行き、意気投合して楽しいひとときを過ごしたとする。そして翌日「ゆうべは何をしていたの」という私の問いに、「グループ組んで飲みに行って、結構楽しかったよ」とサラリと答えてくれる人が私は好きだ。嘘だとわかっていてもいい。その種の嘘は、私を優しい気持ちにさせる。  どんな女であれ、女と二人きりで自分の恋人が酒を飲みに行ったことを好ましく思う人は、多分いないだろう。そんな時、軽く嘘をつく思いやりが、私にはとても嬉しい。私も、もうそれ以上は、「どこの誰とどこへ行き、何時から何時まで飲んで、何を話したの」などと聞かない。  相手を不愉快にさせる話をさりげなく避け、聞く側も追求しようとしない間柄であってこそ、人の心に触れるものが多いのではなかろうか。  惚れているということと、その相手に何もかも真実を語るということは別である。愛情関係にある相手に、自分の全部をさらけ出すことだけが、相手に対する誠実さではない。  一人の女がいて、彼女はそれまでつき合っていた恋人の他にもう一人、好きな男ができた。女は恋人にそのことを告げる。「でも、あなたのこともまったく同じように愛してるわ」と言う。そして……恋人は女を殺した——なんていう記事は、新聞の三面記事を見ればゴロゴロころがっている。ありのままを語り、裸のつき合いをして、相手に誠実であることを強調してみせるのは、鈍感な人間のやることだ。  人はみな、相手に真実の姿を見せられたら、失神するか、うんざりするか、いずれか一つなのである。  誠実であることを気取って、何もかも手の内さらけ出してみせるのは危険だ。相手が自分に幻想を抱いていて、その部分でつき合っているのだったら、それに答えてやるのも礼儀である。貞淑で浮気をしない女という相手側の幻想があるのだとしたら、「いえ、本当は私はもっとふしだらで淫蕩《いんとう》な女なのよ」などと、ごていねいにも解説してやる必要はない。相手の幻想をそっと育ててやることの中に、私は人の心の忠誠を感じる。  こんな話がある。  ある男が、一人の女と親しくつき合っていた。二年ほどたって、彼が外国旅行した時、旅行代理店の女性添乗員と恋仲になった。ただし、こちらの女には亭主がいた。彼はそれまでの恋人に知られぬよう、隠れて人妻と情交を重ねた。会えば会うほどに心魅かれてはいったが、彼にしてみれば、その人妻とは所詮《しよせん》、浮気のつもりだった。従来の恋人とはいずれ結婚するという約束もしてあったし、彼女に対する情熱は、人妻とつき合っても、決して消えることはなかったのである。  そのまま秘密|裡《り》に事が運んで、切れ目のいい時に彼が人妻と別れれば、どうということはなかったのだが、ふとしたきっかけから、彼の恋人は、彼が人妻と浮気をしているという事実を耳にすることとなった。彼女は彼に真偽のほどを確かめた。彼はガンとして口を割らなかった。彼女は一時、納得したかのようだった。  男は私にこう言った。 「真実を語らないことが、僕の彼女への誠実さだったんだ。僕が彼女にやっぱり惚れているということを自覚すればするほど、あの人妻との浮気を語るべきではないと思った。僕が別の女と交渉をもったのも、彼女に対する不誠実な行為ではないんだよね。僕が僕の世界で処理できる限りのことは、彼女にいちいち伝える必要はないと思っている。もし彼女に真実を伝えるとしたら、自分の世界で処理できなくなった時だけだよ。誠実ってのは、きっとそういうことなんだよね」  いい男だな、と私は思った。結局、彼の恋人は疑惑に勝てずに、彼のもとを去っていったのだが、この女性は、若さゆえのプライドのためか、彼の本当の誠意が理解できなかったのだろう。  彼の言う通り、人が自分の世界の中で解決できる範囲のことは、もう、その人個人の判断に任せるしかないのである。おおい隠して何も教えてくれない、あなたは不誠実だ、と駄々をこねるのは、一人前の大人がやるべきことではない。ましてや何も教えてくれないことを称して、�不誠実である�とののしるのは問題外である。  彼の恋人は彼をして�貞操観念のある、信じられる男�と思いこんでいた。それは明らかに、彼女の側の幻想だった。つきつめて言えば、彼にとって見当違いもはなはだしい幻想だった。  だが、彼は、彼女に惚れていた。人妻との浮気をひた隠しに隠して、彼女のもつ幻想を保たせようと努力した彼は、私に言わせればむしろ�誠実な�男であるといえる。  私は酒の席などで酔いにまかせて、普段言わないような社交辞令を、ポンポン口に出してしまうことがある。  いつか是非、遊びにいらして下さいとか、またご一緒しましょうとか、通りいっぺんの社会人の挨拶《あいさつ》。その場限りのご愛嬌《あいきよう》。お辞儀して別れたとたんに忘れてしまうような、軽いつもりで言ったはずなのに、ときどき、本当に「お言葉に甘えて……」などと言って遊びに来てしまったり、なれなれしく電話をかけてきたりする人がいる。それも、こちらが忙しいのもお構いなしにだ。  ちょっと親しく酒を飲むともう、竹馬の友であったかのように思いあがって、相手かまわず土足であがりこんでくるこの種の人たちは、決まって頼みもしないのに自分から心を開いてくる。それも全開だ。まったく開きっぱなし。つまらない世間話から自分の過去のこと、現在のことまであけっぴろげに話してくる。  そして最終的には、「それであなたは?」とくるからたまらない。少しでも何かを話したらもうアウトで、まったくなれなれしく人の心にどかどか入りこみ、ああだこうだと忠告、賛美がうるさいったらない。こんな人たちを恋人にする人は、一体どんな人なんだろうと、私はいつも他人事ながら心配になってしまう。  人なつこいだけが取り柄の猫のように、勝手に人の膝《ひざ》にはいあがっては手をなめ、時には退屈にまかせて指の先をキリリとかんだりするこの種の人たちは、おそらく淋しがりやの誠実知らずなんだろうと思う。  相手との距離を保ち、節度をわきまえてから、相手にかける思いやりが誠実というものだ。時には相手を突っぱね、自分の世界と相手の世界とを完全に分離させて、遠くから相手を見守ってやるのも誠実さである。気のきいた嘘も、相手に対する誠実さの一種である。  裸の真実を見せ合うことが、真の人間関係だというのは、私のもっとも嫌うところのものだ。泥にまみれた関係をお望みの向きには、それもまたいいだろうが、私にしてみれば、そうした関係は不毛の一語に尽きる。  人はたった一人でこの世に生まれ、たった一人で生き、たった一人で死んでいくのだ。その淋しさを分かち合おうとして、いくら他の人に身を委ね、裸の自分を見せたところで、やっぱり一人であることに変わりはない。  本当の誠実さは、そうした孤独な人間が、自分と同じ孤独な人間に勇気を与えることでなくてはならないと思うのである。 六章 女の役割常識を打破せよ  男もつくられて男になる  ボーボワールは「女はつくられて女になる」と言った。だが男もまた、つくられて男になるのではなかろうか。  私は幼いころ、よく近所の子供たちと集まっては、日が暮れるまで遊んでいたものだが、毎日のようにやって飽きなかった遊びに�お芝居ごっこ�というものがあった。要するに、架空の物語を仕立てて、自分たちがおのおのの役割を演じることにより、一つのドラマを作りだす�ごっこ�である。  ストーリーはいたって単純。お姫様が悪者にさらわれて幽閉され、それをりりしい王子様とその家来たちが救助するというものや、平和な家庭を営む子連れ夫婦が強盗に襲われてひどい目にあったのを、町の勇敢な保安官が身を捨てて助けるなどというもの。  そこで面白いのは、ガキ童たちのうち、女の子は決まって、お姫様役やかわいい家庭の主婦役をやりたがり、男の子は王子様役、保安官役をやりたがったということである。  たかが四つか五つのガキのやることだから、表面的なカッコ良さに憧《あこが》れて主役になりたがっただけとも言えるが、誰ひとりとして、女で王子様役をやりたがったり、男でお姫様役をやりたがったりする者がいなかったのは、今から思えばおかしなことである。  私も例にもれず、お姫様役や女房役をやりたがっていたが、ふとある時思いついて、王子様役をかってでた。背中にマントをひるがえし(風呂敷で代用)、馬にまたがり(いやがる犬を無理矢理代用)、剣をふりかざしながら(道端の棒きれを代用)、美しいか弱いお姫様を悪漢の手から奪い返すために突進する王子様ってのも、なかなかカッコいいものだと思ったからである。  王子様になりたいんだと申し出ると、ガキどもは口ぐちに「それはおかしい」と言った。 「だって女の子は王子様になれないんだ。王子様は強くてお姫様は弱いんだ。女の子はお姫様しかできないよ」  そういえばそうだなあ、と私は子供ごころに納得した。どこの童話集を見ても、シンデレラや白雪姫は美しく弱く、それだからこそ女であり、彼女たちを助けに行くのは強くたくましい王子様、即ち男だった。シンデレラや白雪姫がハイドウドウと馬にまたがって、悪者を八ツ裂きにするなんて聞いたことがない。  私は自分がお姫様役か、子連れのママゴト母さん役しかできないことをその時知った。自分は女の子なんだなと自覚した。そして何故だか、わけもなく淋しかったことを覚えている。私はもう女の子役しかできないんだ……と。  それでもそのころは、男の子たちも結構ママゴト遊びにはつき合ってくれた。地面に二つ、ゴザを敷いて男の子と並んで、笹《ささ》の葉をオモチャの包丁で切ってみたり、皿に盛りつけたり、「あらお隣りさん、御飯が噴いてますよ」などと声をかけてみたり、彼らも�男�を捨てて、中性化したところで楽しんでくれたわけだ。  だが年を経るに従って、次第に彼らは「ママゴト遊びやるのは女だ。ぼくたちはもうそんな遊びはやらないぞ」と勇ましくのろしをあげて、�男�の領域に足を踏み入れていく。オモチャのピストルで戦争ごっこ、ビニール製の刀でチャンバラごっこ、自転車での町内一周ごっこ、野球、相撲……。  私たち女の子が「仲間に入れて」と近寄っていっても、彼らはもう以前のように親しげに笑いかけてはくれなかった。手にしたオモチャのピストルや刀で私たちを威嚇《いかく》し、「女なんて仲間に入れてやらないよ」と私たちを追い返すのだった。  彼らはその時点ですでに、完全に、人生における男役を引き受けてしまっていたのである。  たまに、心優しい男の子がいて、女の子のママゴト遊びにつき合ってくれたりすると、他の男の子たちは寄ってたかって彼を「やーい、おとこおんな」とバカにした。その男の子は、困惑した顔でベソをかきながら、女の子遊びの聖域である、ママゴトのゴザの上から去っていかざるを得なかった。齢《よわい》、六、七歳でもう完全に、男の子は男の役を女の子は女の役を一生演じ続けねばならない義務を背負ってしまうわけである。     *  よく電車の中で見かける光景だが、日曜日の午後など、二歳くらいの、まだオムツがとれたばかりといった感じの幼い女の子が、父親にモノを喋《しやべ》る時に「ねえ、パパ」と銀座のホステス顔負けの媚《こ》びた調子で囁《ささや》いていることがある。幼いながらも、大人たちの見よう見真似で、女の役割を演じているのだ。本人に女性生殖器があるという自覚はないだろうが、意識のうえで彼女はその時、女なのだ。社会が要請するところの�女�の役割をおのずと察知して、実践しているのだ。  私たちは、もともと男と女なのではない。生まれた時は誰でも、生物学的に分類された雄と雌でしかないのだ。それが成長するに従って、次第に男になり女になっていく。社会が雄には男の役割を、雌には女の役割を要請するからである。  だから雄は自分のことを「ぼく」と言い、雌は「わたし」と言うようになる。 「ぼく」はズボンをはかせてもらい、「わたし」はスカートをなびかせる。そこにきて、もう「ぼく」は、自分のことを「わたし」と言ってはおかしいのである。 「ぼく」はりりしくたくましい王子様で、ドレスのすそをひるがえしながら助けを求める、お姫様であってはいけないのである。  女の子が欲しい欲しいと願っていた夫婦に生まれた子が、男の子だったとしたら、よくあるケースだが、夫婦は無意識のうちに、その子を女の子に仕立てあげようとする。  幼いうちは赤やピンクや黄色のフリルのブラウスなどを着せて、女の子みたいな名前をつけ、飾りたてて彼を女の子人形にしてしまう。その逆もある。男の子が欲しかった夫婦は、生まれた女の子の髪をうんと短く刈りあげ、ズボンばかりはかせて、できるだけヤンチャな子に育てようとする。  私も身近に、そうやって育てられた子を何人か知っているが、皆、ある程度成長して自分が、女の役割、男の役割を逆転させられていたことに気づくと、周囲の目を気にして、一日も早く社会の要請するところの本来の役割にもどろうとする。それまでヒラヒラブラウスに可愛いお帽子などをかぶせられていた男の子は、幼稚園という、一つの大きな社会集団の中に入ると、あせって従来の男の役割をひきうけようとし、もう母親がいくら女の子的な服装を強要しても受けつけない。  おそらくそうした子供たちが一生、社会集団の中に属さずに生命を終えるのだとしたら、彼らは死ぬまで雄でありながら女の役割を、また、雌でありながら男の役割を、おのおの引き受けていくだろう。  だが、一人の人間が一生涯、社会集団を知らずに生きていくことはあり得ない。生後何年かすると、社会に参加している限り、子供たちは雄は男の役割、雌は女の役割を演じるよう義務づけられる。義務づけられないにしても、本能的に雄は男、雌は女をやっていくのが社会常識になっているのを感じとるのだ。  オカマが異常だと、白眼視したがる風潮が根強いのもこのためである。つまり、オカマになる人というのは、雄に生まれたのにもかかわらず、男の役割を放棄して女の役を演じる�異端者�だからだ。社会はそうした異端者を受けつけたがらない。雄に生まれたのだから、男を演じてもらわなくては困るわけである。そうしてもらわないと、男と女の秩序、ひいては社会のモラルが混乱してしまうからである。  女装した完全なオカマ氏と話したことのある人ならわかっていることと思うが、彼らは並みの女以上に女を演技したがる。優しさ、媚び、シナの作り方、話すときの抑揚、セクシーな目つきなど、そのどれをとってみても、社会が要請するところの女以外の何物でもない。雌として生まれた私たち女が、生まれおちた時から本能的に嗅《か》ぎとってきた女の役割を演じることを、彼らはこのうえもなく好むのだ。  よく彼らは「アタシたち、そこらへんの女なんかより、ずっと女っぽいでしょ」と言ってみせるが、確かに彼らが社会的に女を演じ続ける限り、彼らは�女�そのものであると言える。彼らを見ていて私は、改めて、女の役割の何たるかを思い知らされるのだ。そして、同時に雄に生まれて女を演じる彼らの存在は、社会的異端者でもなんでもない、そういう人たちがいても一向におかしくない、という結論に達する。  もはや、「女が差別されている」というのは、片手落ちの認識であると言わねばならない。女だけではなく、「男も差別されている」のだ。  雄に生まれただけの人間、ただ単にぺニスと精液製造機をもって生まれただけの人間が、�男�という仮面を無理矢理かぶせられて、社会という広大な舞台の上で、大仮面劇を演じ続ける宿命を背負うのである。  たくましくて、強くて、理性的で、冒険心旺盛、独立心も強く、決断力、判断力に富み、戦いや勝負事を好む……といったイメージにおおわれた、�男�の仮面。女を見ると欲情し、ともすれば強姦《ごうかん》したくもなり、逆に美女を前にインポになれば、男の価値を下げたとばかりに悩み狂う�男�の仮面。  彼らのうちの何割かがちっとも理性的でなく、感情的で引っ込み思案でヒステリックで優柔不断で……という�女�の属性をもっていたとしても、彼らは社会に生きる限り、そんなものは男の恥だとみなして、隠し続けていかねばならないわけである。女を見て欲情せず、強姦ならず強チンしてほしいと思ったとしても、それを口に出すのはみっともないことだとして、雄々しくたくましく女をかき抱く�男�を演じねばならないわけである。  これは雌に生まれた人間が社会的に�女�を演じながら、�男�の属性を発揮しにくくなっていることと、まったく同じことである。男も女も等しく差別され、等しく社会のいいように作りあげられていっているのだということを、今、私たちは確認しなくてはならない。  最近、若者のインポテンツが増えているという話を聞くが、困ったことに、そうした症状を訴える男たちが皆、一様に悩んでいることである。女を前にして立つものが立たないのは、社会的に見たら�男�を演じきれない、男でない男という評価が下されるだろうが、それは何度も言うように、あらかじめつくられた評価でしかない。インポなら悩めと命令してくるのは社会そのものであって、雄として生まれた人間であっても、多少のインポテンツに悩む必要はまったくないのである。  女を前にしたら、四六時中エレクトさせろと命令してくるのも社会。とにもかくにも�男�たるもの、精子をまき散らせと命令してくるものが社会だ。  ところが、雄は気にいらない女を前にしてエレクトしないし、たとえ気に入った女であっても疲れていたり、他に考えることがあったりした場合もその気にならない。それが当たり前なのだ、当たり前なのに男たちは、必要以上にインポテンツになることを恐れる。ひどいのに至っては、インポになるくらいだったら死んだ方がマシだとさえ言いきる。これは皆、雄たちがつくられた�男�の虚像を自分の実像にしなければと思いこみ、社会における�男�の役割に必死にしがみついて生きているからである。  冷感症の雌がいてもおかしくないように、インポテンツの雄がいてもおかしくない。また、雄を欲しがる色情狂の雌がいてもおかしくないし、雌にいたぶられ、力ずくで犯されたがる雄がいてもおかしくない。  おのおのの役割を取り払ったところに、雄と雌の自然界における自由な交合が生まれる。人間はここに至ってはじめて解放されるのだ。  男と女の仮面をつけたみえすいた芝居の中で、どれだけ私たちは互いを差別し合ってきたか、今を生きる文字通りの�男�、あるいは�女�が証明してくれているのではないか。  ほんとうに性は解放されているのか  この間、ある雑誌で精神科医二人が、性について対談している記事を読んだ。  それによると、社会における性のあり方は、昔に比べて大きく変化していて、たとえば二十年前には「夫は私を素裸にして性器をペロペロなめる。彼はおそらく性倒錯者だろうから離婚したい」などという訴えがあったものだが、現在では大逆転。「夫は私の性器を一度もなめてくれない。性的に異常なのではないか」という相談事がくるという。  性の情報が氾濫《はんらん》する今日、自分の性器をなめるからといって相手を性倒錯者扱いにし、離婚する夫婦がいたら、それこそ笑いものにされてしまうが、わずか二十年ばかりの間に、性の常識がこんなに逆転してしまったという事実は、面白いことである。  私が小学生のころ、母の買ってくる大型婦人雑誌の中には、必ずといっていいほど�秘密のページ�があった。「点線部分をピンで切り取ってお読み下さい」と書かれた、その淡いピンク色のぺージの中に、どんな夢がこめられているのかと、私は母に内緒でよく中をのぞいてみたものである。だが、わけのわからない黒い人形が二つ、あっちを向き、こっちを向きして並び、意味不明の横文字がものものしく羅列してあっただけで、私には理解不可能だった。そしてそれと同時に、何やらワイセツな感じを抱いたのも事実である。  それが今はどうだろう。どの婦人誌を見ても、ピンク色の秘密のページなどありはしない。性の秘密は失われ、そのかわりに、露出過多の性情報で埋められている。親たちが「眠った子を起こすことになる」と言っては躊躇《ちゆうちよ》していた性教育も、行なわれる以前に、子供たちがおおらかに口にする性の話の前で、無用の長物になりかわってきている。大学のキャンパスでは、女子大生らがコーラを飲みながら、恋人へのフェラチオのやり方について大談議している。  アメリカのシェア・ハイト女史によるハイトリポートは、女のオーガズムやオナニーのあり方についての、今までの常識がまったく間違っていたことを報告する。  婦人雑誌の秘密の性のページは、過去の遺物と化し、性の常識はことごとく変わった。これは一つには文明の発達によって、性の営みが、生殖だけを目的とするものではなくなってきたからであろう。男と女が裸で抱き合うということは、昔はつきつめれば種の保存……即ちガキを作るための行為だった。だから、結婚をすませた男女の間で行なわれるもの以外は、性は反道徳的なものとされていたのである。  だが、次第に性は快楽を目的とする、男女の行為になりかわってきた。発情期が決まっている動物の世界ならまだしも、年柄年中、発情している人間が、欲情するたびにガキ生産を目的にしていたら、どれほどおぞましく人口が増えるか、ということに人々は無意識的に気づいたのである。  こうして性は、一組の男女がお茶を飲み、食事をし、映画を観るといったことと同様、デートの一方法にすぎなくなってきた。金曜や土曜の夜は、各地のラブホテルは満室だというが、そればかりでなく、公園の暗がりでまだあどけない顔をした十五、六歳のカップルが、熱烈に抱擁し合っている光景も日常茶飯事。表面的には本当に性モラルは大きく変わった。  だが、それはあくまでも表面上であると、ただし書きをつけておかねばならない。というのも、性モラルの変化の大きな原因となった女性の側の意識の覚醒《かくせい》はまだまだ、男に全面的に認められていないからである。  だいたい、これだけ性モラルが変化し、性が解放されたかのようにみえる世の中で、男たちの処女願望、女の浮気の否認、女体神秘化があとを絶たないのは、一体、どうしたことだろう。彼らは自分が抱く女とは、これまでの封建的性のモラルを完全に超越したところで、自由奔放に、それこそ公私を問わず性行為に走るくせに、大学のキャンパスでフェラチオの話をする女たちを軽蔑《けいべつ》し、どんな男とでも寝る女を都合よく利用しておいてから、「公衆便所」などと呼んでは、その人間性を無視したがるのである。  公の席では「処女がいいなんて時代錯誤」と豪語しておきながら、実際、私生活で恋人が処女でなかったことを知ると、腹をたてるのである。そして、はなはだしい女体の神秘化——どんなにマヌケでもアホでも、美しい肉体さえ持ち合わせていれば、彼らは女を崇拝する。それは、女は若ければそれだけで価値があるという、年齢幻想を生み、五十を過ぎた女は、どうあがいても彼らにとっては「ババア」でしかなくなってしまう。女の人格的魅力はそれだけでは、決して、肉体的魅力に勝ったためしがない。美人のアホとブスの知性、いずれかひとつを取れと要求されたら、彼らは必ず、前者を選ぶだろう。  今日の性の解放は、女だけの手によってなされたもの……つまり、女のめざましい意識の進歩がつくりあげた結果のものである。男の側の意識は、何ら本質的に変化していないのだ。表面にあらわれた、性モラルの変化を喜んだり憂えたりする前に、私たちは、まずこのことに気づいておかなくてはならないと思う。  さて、私は仕事柄、ときどき編集者や文筆家に連れられて、ホステスのいるクラブに行くことがあるのだが、正直を言うと、あの種の席はあまり居心地のいいものではない。  もちろん、女の客などいるわけはなく、たまに私のような女が、年長者に連れられて出入りすることもあるらしくて、女の客の扱いには皆、慣れているようだが、客であるこちらも、ホステスであるあちらも、互いに困惑してしまうのである。  何故、困惑するかというと、彼女たちは、店では女の性を商品化させた人形を演じているわけで、その商品に対して金を払うオッサンの間にまざって、私のように�商品ではない外部の女�が存在するのは、彼女たちにとって、はなはだ迷惑だからである。それに私の方も、必死になってショーケースの人形を演じる彼女たちに、金も払わずに、高みの見物をしているようで気がとがめてしまうのだ。  美しく着飾り、髪も美容院できちんと結って、化粧品のモデル顔負けに手入れのゆきとどいた肌を見せながら、客に酒を作ったり、時には膝にそっと手をのばしては色っぽく笑ってみせたりする彼女たちは、男が要求する女の資質を、外面的に全て兼ね備えている。それを売ることを商売にする彼女たちと、金を払ってショーケースの中の人形としての彼女たちを丹念に眺めまわし、触って喜ぶ男の客たち。男と女が金を中心にして買い手と売り手を演じる虚構の世界がそこに誕生する。  そうした世界は、商品になりきっている彼女たちにしてみれば、同性の目の前にさらしたくないものであるだろう。また、私も見ては失礼だと思ってしまう。だから、なるべく女性のいるクラブには行きたくない、と思うのである。  だがやはり、ホステスとおじさま族との間に繰り広げられる、男イコール買い手、女イコール商品というドラマは、現実に私たち一般の男と女の間のものでもあるのだ。  性モラルの変化、性の解放は、果たして女の商品化まで消滅し尽くすことができただろうか。残念ながら答えは�否�である。  私たち女を商品にしている男社会の実態は日常生活いたるところで発見できる。  たとえば処女……即ち、まだ誰の手にも触れられていない新品は、ショーケースの中で光り輝いているわけだから、買い手は殺到する。新品はそれだけで値段が高いから、価値があがる。買い手は中古品など見向きもしない。  たくさん並んだ買い手の中から、もっともふさわしい人を選び出すのは店の主人……即ち、処女の親の役目である。主人はこいつはハンサムだが金が無いから売れないとか、あいつは金はあるが手荒そうだから任せられないとか、いろいろ逡巡《しゆんじゆん》したあげくに、的を一人にしぼって、最終的にその買い手に商品を譲り渡す。商品はただ黙って、じっとしていさえすればいいのだ。  あるいはまた、買い手のもとに数回渡されていった中古品——即ち、離婚した女や、何人もの男と関係をもった非処女——でも、ひたすら磨きをかけて、新品に近いほどの美しさを保てる状態であれば、まだまだ黙っていても買い手はつく。買い手の質は新品の場合より、多少、百戦練磨のプレイボーイタイプや中年が多くなるが、それでも売れるなら十分。店の主人は喜んで高い値段で売り渡す。  ここでも、商品は肌を磨き、イオナクリームでも塗りたくって、美しさを保ってさえいれば、あとは何もしなくてもいいわけだ。本人が新聞の政治欄を読みたいと望んでも、店の主人はそんなことする必要はないと笑い出す。きれいにしていればいいんだよ……と。  この他にも、先述したクラブのホステス然り、ソープ嬢、ストリッパー然り、売春婦然り……。男たちの遊びの世界で、女は自分の性を商品化させていけば、そこらへんのOLをやるよりも、高い給料が得られることを学んできた。あるいは、妻の座に安泰に腰をおろしている主婦にしたってそうだ。自分の肉体を商品にして夫に売り、そのことによって得た報酬(=夫の給料)でもって生活していく術を彼女に教えたのは、女を商品化させる男社会以外の何物でもない。  男の浮気はあたりまえで、女が浮気をすると、ひそかに淫乱女という烙印《らくいん》がおされる風潮があとを絶たないのも、女が商品として扱われているからだ。買い手としての男が他の商品としての女に目移りして、ちょっと金を払って懐に抱いたとしても、ちっともおかしくないが、商品としての女が、自分からショーケースを脱け出して買い手のもとに「アタシを買って」と言い寄っていくのは、あり得ない。商品が一人歩きするなど、薄気味悪いことなのである。  そもそも商品に足がついていて、勝手に歩き出したとしたら、その商品は汚れがつきやすくなって価値が下がってしまうことになるのだ。  また、男の美醜はそれほど問われないのに、女の美醜はことごとく判断の基準にされている、というのも同じ理由によるものである。買い手に美しさは必要ない。要求されるのは良い商品を選ぶ鑑識眼と、頭の良さである。だが、商品には頭の良さ、知性、教養はさほど要求されない。ただ美しく若く、少しでもつややかであればそれでいいのだ。  先日、美人の友達が「おごった言い方かもしれないけど、デートした時、私が何かについて話そうとするのも聞かず、『美人ですね』と言ってくる男はまるで信用しない。話をしたあとにそう言われるのは嬉しいけど、何も話もしていないのに、外見ばかり寸評してこられると、馬鹿にされた気分になる」と言っていた。これも真実であろう。 「顔じゃないよ。心だよ」という言い方は、男に対しては通用するが、女に対しては建前上でしか通用しない。柴又《しばまた》の寅《とら》さんは、いつも美人と共演するが、ブスを売りものにする女優さんは、決して男との激しいロマンスを、たとえドラマの中にせよ表現することはできないのだ。  こんな具合に、女の商品化はあまねく社会の中に定着している。そのことに気づいているいないにかかわらず、私たち女は、その商品としての自分から脱け出そうとすると、等しく社会からの総攻撃に出会う。  十五歳で処女を失い、十八歳で妊娠し、親に隠れて中絶までしたある女子高校生は、解放された性の持ち主であったはずなのに、二十歳で恋人以外の男と自分の判断のもとに�浮気�をしたら、恋人に平手打ちをくわされて去っていかれた、私は昔ながらの女にもどってしまったような気がした、と語った。  性行為そのものに関しては、社会の抑圧は少なくなったが、女の側が商品から脱け出して、自分の判断のもとに行動しようという意識をもち始めると、社会は急に寝返ったようにしっぺ返しをくらわせてくる。性行為それ自体は、どれほどおおっぴらにやろうと知ったこっちゃない、男が買い手で女が商品である限り、好きにやれ、ただし、女が買い手になるのだけは許さん——というのがまぎれもない現実の社会なのだ。  これで性が解放されたと言えるだろうか。性のモラルが良い方向に変わってきたと言えるだろうか。  解放され、変わったのは、性行為の内容と性生活が若年層に及んだという点だけであって、実際の男イコール買い手、女イコール商品、という図式だけは、ちっとも変わってはいないのだ。  男も女も等しく買い手になり、自分の判断のもとに性と性の結合ができるようになった時にしか、性の封建性を消滅し尽くすことはできないのである。 七章 女は皆ドンファンである  エロスのやさしさ、そして怖さ  私たちはよく「エロチック」という言葉を口にする。何となく情欲をそそるようなもの、見ていて溜息《ためいき》が出るような、なまめかしいもの、ちょっと触れてみたくなるようなものに対して発する言葉は、「セクシー」という言葉よりも「エロチック」という言葉の方がふさわしい気がする。  何もここで「セクシー」と「エロチック」の違いを、百科事典風に論議するつもりはないけれど、一言でその違いを言うのならば、「セクシー」は性愛そのもの、性行為そのものを喚起する時に使う言葉。一方「エロチック」はむしろ性愛そのものと、最も遠いところにある想像力……性愛をイメージの中でとらえた時のエネルギー……を表わす言葉なのではなかろうか。  たとえば、ここに一人の女がいて、彼女がスケスケのブラウスを着て、ノーブラであったとする。私たちは彼女のピンク色の乳首が、丸く写し出された上半身を見てこう言う。 「セクシーだわ!」  その彼女がしばらくたってスケスケのブラウスの上に、ざっくりと編み込まれた毛糸のカーディガンをはおるとする。彼女は無造作に胸のボタンを止める。先程までくっきり見えていた乳首は、もう完全に見えない。彼女の細くしなやかなウエストラインや脇腹のあたりも、完全に隠されてしまっている。隠そう隠そうとするかのように、厚いカーディガンのボタンを止めていく彼女の細い指先を見て、私たちは言うのだ。 「エロチックね!」  女ばかり例にあげても片手落ちだ。男の場合だって同様である。  一人の男が、身体にピッタリした海水パンツをつけ、上半身ハダカで歩いている。その彼の胸に生えている黒い胸毛と、歩くたびに微妙に揺れるお尻の筋肉と、そして、言うまでもなく股間のあたりに視線をやって、私たちは「セクシー」と言う。  ところが彼が、その裸同然の肉体にバスローブをつけ、浜辺の椅子《いす》に浅く腰かけて、眩《まぶ》しそうに目を細めて遠くを見やると、私たちはそこに漂う雰囲気を指して「エロチック」と言うのだ。  つまり、セクシーであると思う時、私たちの頭の中には、性的欲望、ないしは性行為を連想させる、動物的な本能が湧きおこっているということになる。乳首の透けたブラウスを着ている女を見てセクシーだと思うのは、彼女が他の男に情欲をおこさせるに十分な状態にいると判断するからであり、海水パンツ一枚のたくましい胸毛の男をセクシーだと思うのは、自分、あるいは他の女とその男との性行為を直接、想像できるからである。  ところが「エロチック」——言いかえれば、エロスを呼びおこすものとなると、まったく違ってくる。性愛とか性的欲望が、知性や想像力と結びついたものがエロスである。だから、エロスは動物的本能的欲情とは対極をなすものだと言うこともできる。  一人の人間の精神の部分が肉体を突き放し、遠くからその全体像を眺め、隠されているものを、想像力をかきたてるようにして自分なりに思い描くことが、エロスに向かう人間の快楽である。  性行為や男女の性そのものは、だから、エロスにはなり得ない。先にあげた例にしてみれば、厚手のニットのカーディガンのボタンをはめる女の指先や、遠くを見つめる男の目の輝きにあるのがエロスである。決して女の生殖器、男の生殖器、そのものずばりには、性行為を連想させるセクシャルな感情は持てても、エロスは湧きあがってこない。  肉体と精神を分離させ、精神の側から肉体を見る時、初めて、エロスが生まれるのだと思う。言ってみれば、エロスとは実にクールなさめた感情かもしれない。  だが、多くの人びとはこれまで、「愛」を信奉するあまり、どうも「エロス」を悪徳と見なし続けてきたような気がする。「愛」が精神の領域にあるから高貴で、「エロス」が肉体をイメージづけるから不鈍だという、あいも変わらぬ古い精神至上主義がそこにあるからで、私には全く納得がいかない。「エロス」を肉体そのもの、性行為そのものと結びつけて考える人が多いせいかもしれないが、いずれにしても馬鹿げたことである。  そう主張する人たちは、たいてい、「愛があれば当然、性的にも満足できる」と信じている。それは言いなおせば、「愛があれば性行為そのものがあって当然。なければおかしい」ということである。そこにエロスの介在する余地はない。  彼らは精神的愛が高まれば、性行為もうまくいくと信じ、精神と肉体は常に相乗効果を狙《ねら》えるものだと思いこんでいるのだ。精神と肉体を切り離してみる、エロスの世界が初めから失われているのである。  よく私は、情熱的に愛している人と一晩ベッドをともにして、動物のような性行為をし、肉体的にはすっかり欲望を満足させても、精神的には不満が残るという女性の話を聞く。 「こんなに激しく愛し合ったという満足感が通り過ぎていくと、不思議なことに二人とも動物になりきっちゃったような気がして、不満になるの。私たちは人間で、男と女で、しかも、精神的にこんなに愛し合っているんだってことを確認したくなるの。そんな時は性欲なんてこれっぽっちもなくて、ただ言葉で、アイシテル、アイシテルと言い続けるのね」  それから、ものすごく惚《ほ》れている女と一晩すごしても、性欲がまったくわかずに朝になってしまったという男性の話もよく聞く。 「別に抱き合いたいという欲望がなかったわけじゃないけど、それが直接、性行為に結びつかないんだな。素裸の女を目の前にして、すみずみまで眺めて、それですごく満足するんだ。精神でオーガズムを感じている時なんだね」  このどちらの場合も、私にはエロスが感じられる。激しく愛し合った後、精神が置きざりにされてしまったような不安感をもつ女性——彼女は自分で無意識のうちに、精神と肉体を分離させるエロチックな作業を行なっている。彼女の場合、子宮のオーガズムより「アイシテル、アイシテル」という言葉による愛情確認の方に、より多くのエロチックな満足が得られるのだ。  また、裸の愛する女を前にしているだけで満足してしまう男性も同様、彼女を「見る」……少し離れて冷ややかに眺め、時には少し触れたりすることにより、彼のエロス感覚を十分に満たすのである。  愛さえあれば、あとは穴と突起物を交錯させるだけ……という精神至上主義者たちの貧しい性感覚からすれば、エロスの世界は異常で時には狂気だ。  先に述べたように、エロスとは性行為そのものではない。食べる、触れる、見つめる……。あらゆる、人間の動作がエロスと結びつく。  たとえば、私たちは可愛い赤ちゃんを抱きながら「食べちゃいたいくらい可愛い」と言う。あるいは、とても愛した相手を、頭から食べてしまいたいと思う。ムシャムシャ、ガリガリ、ポリポリ、お菓子や肉を食べるように全部、口の中に含んで「食べちゃいたい」と思う。それは間違いなくエロチックな感情である。  河野多恵子の『妖術記』という本の中に、主人公の女が実の父親の骨を食べるシーンがある。誰《だれ》もいない部屋で、骨壺《こつつぼ》におさめられた父親の骨をしげしげと眺めているうちに、彼女の中に父を求める気持ちがどうしようもなく湧きおこってくるのだ。�砕けた益子焼《ましこやき》�のような具合になっている、父の骨の小さな破片を彼女はひとつ、口に入れる。  『必ず噛《か》み砕くことができるにちがいない感じと、噛み砕くことのできるもののうちの、最高の固さであるにちがいない感じが一緒に生じ、二つの感じの印象の裡《うち》に、それは細かくなった。粉になった。が、どれほど粉になっても、一粒一粒が妙に固く際立っているような舌ざわりが強かった。わたしはそのまま口中でまとめておいて、食べてしまった』  私はこのシーンがとても好きだ。欲を言うならば、彼女が食べたのが父親の骨ではなく、亡き恋人、亡き夫の骨であったら、もっとエロチックだったと思う。  以前、祖母から聞いた話だが、祖母の友人である女性は、その昔、よく黄色とも茶色ともつかぬ不思議な形をした、小さな球状のものを持ち歩いていたのだという。祖母がある日、不思議に思って「それは何」と聞くと、彼女は言いたがらない。「お守りの小石よ」と言ったり、「おまじないなの」と言ったり、どうもはっきりしない。  ある日、夕暮れ時に祖母が彼女の家へ入っていくと、祖母があがって来た音が聞こえなかったのか、彼女は何やらブツブツと独り言を言いながら、手にしたアメ玉をしゃぶっていた。  一回、口に入れては出し、また入れては出し……。そして彼女がこうつぶやいたのを、祖母ははっきり聞いたのだそうだ。 「アンタののどボトケ、アンタののどボトケ」  あとでわかったことだが、アメ玉のように見えたのは、彼女がいつも持ち歩いていた�小石�であり、そして、それは実は、彼女の亡くなった夫ののどボトケの骨だったそうなのである。おそらく火葬にした時、燃え残ったのどのあたりの骨をもらってきたのだと思う、と祖母は言っていた。  私がこの話を聞いたのは、中学のころで、この話をした一年後に祖母は他界した。老人の誇大妄想で、脚色もあったかもしれないが、今は、その真偽を確かめるすべもない。ただ、事実でなかったとしても、私はこの話を思い出すたびに、ひどくエロチックなものを感じてしまうのだ。死んだ男ののどの骨をなめる時、女にはどれほどの悲しい満足感、淋しいエクスタシーがあることか。  これら一連の「食べちゃいたい」気持ちの中に、ともすればうかがえる残酷さ、狂気、異常さは、「いやな感じ」であると同時に、「いい感じ」でもあるのだ。  つまり、恋人の骨をなめるとか、阿部定のように恋人の肉体の一部を切り取ってしまうとかいった「いやな感じ」のする行為は、いやであると同時に、否応なくエロチックなものなのである。そこに理屈はない。思想もない。理にかなった、心理の動きもまったくない。あるのはただ、性行為などという、単純な交合を超越したところにある、すべての人間が感覚で知っているエロスだけである。  湖でスケートをしていて気づくことがある。一度、すべり出すと、別に加速度を増しているわけでもないのに、自分で止まろうとせず、どんどん奥の方へすべっていってしまうのだ。まるで薄氷の方へ方へと、好んですべっていくように。氷が割れて落ちてしまうのを、いたずらっぽく望んででもいるかのように。  この不思議な衝動はエロスの衝動と似ている。いつでも自分でコントロールできるのにもかかわらず、純粋エロスは無目的に、常識とはかけ離れた方へ方へと私たちを運んでしまう。精神と肉体は分断され、性行為をしている肉体を、おもしろがって精神が眺めている。そしてそのうち、性愛は目的化されなくなり、氷の割れる方へ限りなくすべっていくスケーターのように、エロスが勝手に衝動的に動き出すのだ。  性行為を超えたところに存在し、愛とか恋とかいった感情ともまた違う、このエロスの存在に、私たちはもっと気づいていいはずだ。それが悪であるとか、異常であるとかいっては、エロスの狂気をはらんだ指向性を糾弾したがる社会など放ったらかしておけばいい。愛と性行為を単に結びつけただけで、社会にとって都合の良い理想的なカップルを作り出すことに手を貸していては、大切なエロスは死んでしまう。  エロスは私たちに残された唯一の人間らしさ、そして、人間の想像力の生んだ素晴らしい映像なのである。  貞淑なのではない、もてないのだ  世の中には、貞淑な女性とそうでない女性とがいる。貞淑でない女性というのは、文字通り、浮気性の女性、淫蕩《いんとう》な女性ということになる。そして、すべての女性は、貞淑か浮気性かの、二つに一つで区分けされる。言うまでもなく、前者は高い評価を得る。男社会のデッチ上げた神話の中で、女性の貞淑さが、女として生きるための最低必要条件となっているためである。  わかりきっていることだが、男たちは女の性本能などあり得ないと、未だに信じている。あったとしても、それは男によって開発されたものにすぎず、自分から性に目ざめて、男を求めて行動する女などいやしないと思っている。  あるいは、商売女は別として、平均的な女は肉体と精神を分離させることができずに、常に「愛した」男としか寝床をともにしないものだと決めつけてくる。それゆえに、その「愛した」男に性感を開発されると、矢も楯《たて》もたまらなくなって性に溺《おぼ》れ、その男から離れられなくなるものだ……と、こうくる。  彼らの論理に従って言えば、女にとって自分の性愛と精神的な愛を満足させることのできる男は、常に一人であるのが当然で、この理屈からすると、全ての女は貞淑であるのが当たり前。性愛の対象を二人以上もとうとする女は異常……ということになるのである。  だいたい、淫蕩な女、浮気性の女が、一般の男の賛辞を受けたためしはない。文学や演劇、映画などの中においては、強烈なキャラクターをもっているため、淫蕩な女も聖女の扱いを受けることができるが、現実の世活の中では、いつだってマイナスのイメージでしかとらえられない。 「ブリジッド・バルドーは魅力的だ。でも俺の女房や恋人には貞淑であってほしい」……彼らの言い分は、どんな場合でもこうなのである。そのへんは稚拙なまでに一貫している。  男の中には健気《けなげ》にも、一人の女に対して貞淑を守ろうとするような者もいるけれど、大半は「男の浮気は生理的なものだから仕方ない」として、複数の女を相手にしたことを、まるで勲章のように誇らしげにひきずって歩きたがる。一人でも多くの女に精液を注入することは、彼らにとって美徳にこそなれ、決して悪徳呼ばわりされることはない。昔から�浮気な男�は甲斐性のある男の代名詞とされていた部分さえある。女から女へと渡り歩くのは、男にとって、自分のバイタリティを証明できる格好の材料でもあったのだ。  ところが女の場合は、浮気な女は即、売女となる。尻軽女、遊び女、淫乱女、公衆便所……。男は都合よくこれらの女と寝ておきながら、彼女らをあくまでも客体と見なして、好きな限りの悪口雑言を吐く。「あの女は誘えばすぐついてくる」……誘った自分を棚にあげて、複数の男の前に、素直に肉体を開いてくる女を半ば軽蔑《けいべつ》する。  彼らは、この種の女たちと遊びはするが、ほとんどの場合、真面目な恋愛をしようとはしない。本来、貞淑であって当然の女が、このように複数の男と寝るのは、彼女が異常だからだと見なして、あくまでも適当に度をはずさぬよう、つきあおうとする。  深窓のご令嬢などが母親に「おいそれと処女を与えてはいけません。尻軽女に見られて、適当にもてあそばれ、捨てられてしまいます」と言われて納得するのも、あながち時代遅れだとは言いきれない。どう転んだところで、今の社会では、あいも変わらぬ男の�貞操願望�が深く根をおろしているのである。深い認識や自分なりの人生哲学を持たずに、肉体を切り売りする女は、いつの時代でも残酷なまでに、男たちの餌食となってきた。悲しいことだが、それは認めざるを得ない事実である。  だが、ここでもう一度、女の淫蕩さ、浮気というものがどんなものなのか、考えておく必要がある。男たちはたいてい、女の淫蕩さは、その人が生まれもった性格に由来するものだと信じている。先に述べたように、本来、女は貞淑であってしかるべき肉体構造をもっているのだから、淫蕩であるというのは、性格異常者だということに決めつけてしまう。男ばかりではない。女自身も、自分の淫蕩な部分を性格のせいにする。「私のせいじゃないわ。こんな性格に生まれついただけなのよ」と浮気な女性は、大袈裟《おおげさ》に溜息をついてみせる。  複数の男と恋愛をしたり、定まった恋人がいるにもかかわらず、他の男にうつつを抜かしてしまう女性は、日頃は自分の行為を必死になって正当化しながら生きているが、その実、心の中では「私は悪い女だ」と悩んでいる場合が多い。男社会に生きながら、男どもの�貞淑願望�に背を向けて、好き勝手に男を変えることは、それなりに勇気がいる。その勇気がさまざまな理由でくずれかけると、彼女は悩むのである。性格異常ではないかと思い、苦しむのである。  しかし、本当に女の淫蕩さは、性格によるものだろうか。断じてそうではないと私は思う。全ての男が浮気性であるように、女も全て、浮気性なのである。  Aという定まった男以外にもBもCも知りたい、寝てみたいという願望が、まず間違いなく女の中にあるはずだ。Aだけで十分、私は満足だわと言いきれる女は、�貞淑�な女だからそうしているのではなくて、Bという男、Cという男の出現がないから、仕方なく�貞淑�なままでいるだけなのである。B、Cという第二、第三の男が現われれば、彼女の気持ちは動揺する。それは当たり前のことである。  つまり、女が浮気性であるかないかは、その人の環境によるということだ。環境によって、その人に浮気な部分が出てきたり、出てこなかったりする。もともと環境に恵まれていなかった女だけが�貞淑�の称号を与えられるわけだ。  たとえば、ここにA子とB子という二人の女がいるとする。二人とも十人並みの器量をもち、年齢も同じ二十四歳、スタイルもまあまあである。二人を並ばせると、どちらがどちらなのか判別し難いほど、顔かたちから背格好まで全て似かよっている。  ところがおかしなことに、A子は十九歳で初体験をすませ、以後五年間に五人の男と深い関係になっているのだが、B子の方はというと、未だに処女のまま。一人も男を経験していない。  これだけ書くと、ほとんどの人はB子は貞淑な女、A子は淫蕩な女であると思うだろう。だが、それは表面的に正しくても当たっていない。確かにA子は初体験以後、五年間に五人の割合で男を変えたのだから、一年に一人、新しい男と恋愛に陥っていた計算になる。これは世間的に見れば貞淑ではあり得ない。  しかしA子が若い男ばかりいる職場で、しかも毎日、対外的に人と会わねばならない職業についていた女だったと言えばどうなるか……。B子が従業員十人足らずの小さな会社で、中年の短足、腹ボテ男やオバサンたちに囲まれて、何の変哲もない毎日を送っていたのと比べ、A子は、ことのほか誘惑の多い環境の中で暮らしていたのである。  同じくらいの器量の持ち主でも、A子の職場は誘惑が多い。A子もすぐ誘われる。誘われてはデートをし、酒を飲み、深夜まで二人で過ごすことになる。それにひきかえ、B子はまったく誰からも誘われず、誘われたところで、相手は興味も好奇心も感じられないオッサンばかり。手を握る気すら起こらない。  こう書けば、A子が五年間に五人も男を変えたというのは、当然すぎるほど当然になってくる。言い方を変えれば、両手両足を使っても数えきれないほどの男から誘われておいて、よく、身体を許したのが五人ですんだ……とも言える。B子がA子の職場に入っていたら、同じように男の数を増やしていっただろうし、逆にA子がB子の立場に立っていたら、初体験もままならぬままに、二十四歳に至っていたことだろう。  このように、淫蕩か貞淑かは、すべてその人の置かれた環境によって変わってくる。性格的なものではない。誰でも等しく貞淑であり、また、淫蕩なのだ。  一部の男たちの中には、「淫蕩な女、浮気性の女は冷感症なのだ」という説が大手をふってまかり通っているが、これまた、あまりに幼稚な説である。彼らによると、一人の男に精神的、肉体的に満足できない冷感症の女が、次から次へと男を変えては、充足を求めてさまよい歩くということらしい。つまり、性の悦びを知った女は、その悦びを与えてくれた男にしがみつくようにして生き、献身的に男に尽くそうとするのがふつうであり、そうなると、決して他の男には見向きもしないはずだ……というのが、彼らの言わんとするところなのである。淫蕩な女は、性の満足を得られないゆえ、他の男に走るというわけである。  まことしやかに伝えられるこの種の説は、男の女を見る目が、ちっとも変化していないことを証明している。女は受身だ、客体だ、男がその性感を開発し、つくりあげていくものだ、すると女は子宮でものを考えるようになる、子宮で満足している女は、絶対に浮気はしない……。何とアホらしい、旧態依然とした論法であることか。  性に満ち足りていないから、他の男を求める女もいれば、満ち足りているからこそ、男のように他の肉体をつまみ食いしたがる女もいる。精神的愛情だけでは満足できない女もいれば、それだけで十分だと思える女もいる。それは、女だから、女の生殖器をもっているからという理由だけで、片づけられる問題ではない。男も女も等しく、性においては貞淑であり、同時に淫蕩でもあるのだ。  違いがあるとしたら、男が淫蕩の部分をあるがままに表わしても、社会的にはちっともおかしくないのに比べ、女は逆に社会的に貞淑さを示していかねばならないという点だけである。 「女は子宮で考える」という言葉も「女は男次第でどちらにでも変わる」という言い方も、すべて女の上に立ち、主導権を握らんとした男の発想から生まれたものである。男と女のはっきりした差を、明確化できないものだから、かろうじて厳然たる違いを呈している男と女の生殖器をもち出して、せめて性の上だけでも優位に立とうとする。  性を満足させてやりさえすれば、女は決して逃げていかない……と女を性のオバケにさせたがるのも、性以外で女を縛りあげる能力が何もない男の、貧弱な悪あがきからくるものである。 「男次第で女は変わる」など冗談もほどほどにしてほしい御発言ではないか。人の性格というものは、相手が男であっても女であっても、まったく関係なしに変わり得るものなのである。人にはいろいろな面があり、本人が意識するしないにかかわらず、それら全ての性格は表裏一体を成して、人の心の奥深くに眠っている。  たとえば、やさしい女がいたとして、彼女は男たちから「天使のようにやさしい」と賞めたたえられている。どんな時でもいやな顔ひとつせずに、頼んだことをしてくれるのだから「天使のように」という形容はピッタリである。  その彼女にある時期恋人ができた。恋人は平気で人を傷つけることを言い、彼女にもときどきつらくあたるような男だった。彼女は次第にその男に我慢がならなくなって、ヒステリーを起こすようになる。ひどい時は、ハンドバッグで男をなぐったり、素手でひっぱたいて、下卑《げび》た言葉を浴びせかけたりする。それを見ていた周囲の人たちは、唖然《あぜん》として「あんなにやさしかった女なのに」と恐れをなす。彼らは言う。「女は男で変わるものだなあ」  これは何も、女が男によって変わったのではなく、それまで彼女の中にひそんでいたヒステリックな性格が、やさしい性格をしのいで表面に表われただけの話である。  Aという男といる時は、底抜けに明るいユーモラスな女でも、Bという男といると陰気で妙に湿っぽく、猜疑心《さいぎしん》の強い女になってしまう場合もあり得る。これも彼女が男に合わせて、自分の性格を一面ずつひっぱり出しているにすぎないのであって、A、Bという二人の男が彼女を変えたわけではないのである。  このように、男社会の犯している誤謬《ごびゆう》は数限りなくある。精神分析学者の岸田秀氏によると、「男の性行為は女の膣《ちつ》を使ってマスターべーションをしているにすぎない」ということになるのだが、同じように「女の性行為も男のペニスを使ってマスターベーションをしているにすぎない」のであるのかもしれない。  所詮は、この程度の男女の性関係を、男が主体だ、女が客体だなどと言ってみても始まらないのである。かずかずの神話や伝説にこりかためられた男たちに(あるいは一部の女たちに)、これらの真実をいちいち呈示してやるのも骨の折れることだが、あきらめずに続けていかねばなるまい。 八章 結婚の虚像は何も生まない  取りかえのきく相手との結婚願望のもろさ  結婚したがる女が多い。そしてまた、結婚したがる男も多い。二十代前半には情熱にかられて、二十代半ばには興味と好奇心で、二十代後半になると世間の目を気にして、そして三十代に突入すると必要に迫られて……。  いずれの場合にせよ、結婚したがる人びと、何が何でも結婚しなければと思っている人びとの、結婚に対する憧れの念は大変なものである。彼ら彼女らのような人種が存在する限り、結婚式場は今後どんどん増えていくだろうし、旅行会社のハネムーンツアーは商魂たくましく、あの手この手で世界中を彼らのために開放してくるだろう。とにかく、何が何でも結婚を……というのだから、時期に多少の差はあっても、男と女は各人の結婚願望を満たすため、結婚という目的に向かってまっしぐらに、猪突《ちよとつ》猛進していくわけだ。  春や秋になると女性誌は、こぞって�ブライダル特集�なんてものをやりたがる。さすがに初夜のセックスの仕方まで教えてくれる老婆心《ろうばしん》はないようだが、あとは結婚式場の選び方から花嫁衣装の紹介、ハネムーン先での注意、新婚生活の必需品リストアップに至るまで、手とり足とり、至れり尽くせりの大サービス。とくに花嫁衣装の紹介のぺージでは、ういういしいモデル嬢が、白や淡いピンクのヒラヒラしたウェディングドレスにブーケという、お定まりの姿で、まさにこの世の春とばかりに、ニッコリと読者に微笑みかける。 「まあ、素敵!」「わあ、これ、私に似合いそう」……キャッキャッと楽しげにページをめくる女たちの、心の中に眠っていたはずの結婚願望が甦《よみがえ》る。結婚したい、一生に一度のことだから、貯金を全部おろしてでも豪華な結婚式をやりたい、そして幸せになりたい……。女たちはうっとりと夢みる。  やれ自立だ、キャリアウーマンだと騒いでみたところで、所詮は空しい夢追いびと。自分には何ら才能もなさそうだし、このまま仕事をしていくのも一人じゃ淋しいし、ああ、やっぱり結婚したい……。  女ばかりではない。男の中にだって、この手の男がゴロゴロいる。誰でもいいよ、女なら、俺《おれ》のところに来てくれる心優しい女性なら本当に誰でもいい、結婚したいよぉ……と周囲の男たちが、結婚して幸福そうに子供などつくっていくのを見ながら、わびしく、六畳一間の安アパートでラーメンすする独身男は叫ぶ。  私の知り合いの某氏は三十歳で、何とか結婚してくれそうな女性を見つけ、口説きに口説いてやっとのことで結婚式にこぎつけたが、式の一か月前、『アンアン』『ノンノ』のブライダル特集のカラーグラビアを見ながら、次第に興奮。「よし、俺も式には白のタキシードを着るぞ」と宣言し、都内のデパートを飽きもせずに、白のタキシード求めて歩きまわって、周囲の人びとの失笑をかった。  結局、この男は、念願の白のタキシードで結婚式をあげ、ピンクのスーツにピンクの帽子をかぶらせた花嫁さんと、喜びいさんで東京駅から新幹線に乗ってハネムーンに出かけていった。それが彼の憧れていた�結婚�だったことを、私は後になって彼の友人から聞かされ、二の句がつげなかったことを覚えている。  私は、結婚に憧れる人たちは、まず第一に結婚式や披露宴に憧れているにすぎないのだと思っている。  女はともかくとして、男が結婚式に憧れるなんてあり得ない。皆、男は不承不承に式に出席しているだけなんだ、という意見が圧倒的だろうが、とんでもない。照れ臭さのうしろに、美しい花嫁を見せたいという見栄や、自分が式の主役になりたいという自己顕示欲、それに、正々堂々と家庭を築くパスポートを社会から与えられたということを、式に参加した人たちに見せびらかしたいという欲求がひそんでいることは、明らかである。  もし、そうしたものが一切なかったとしたら、何故、彼らは率先して白のタキシードを着たがるのだろう。貯金はたいて、分不相応な結婚式をやりたがるのだろう。「結婚は人生の墓場だ」などと気取りながら、何故、鼻の下をのばして新婚生活一年目くらいは、残業もそこそこにスイートホームに帰るのだろう。これ全て、結婚式願望、そして式の後の心地よい興奮のためなのである。  私も二十二歳くらいのころ、とても結婚式に憧れたことがあった。相手は誰でもよかった。ともかく男と名のつく相手と�結婚式��披露宴�の類いをやってみたかった。お気に入りのウェディングドレスを着て、チュールを長く床にすべらせて、ややうつ向き加減でういういしく祭壇の前に愛を誓うなんて、最高の儀式じゃないか、これは一度はやらねば損だ、と思っていた。  その時、隣りに立っている男がどんなにアホでも醜男でも、その最高の儀式の中で、私は錯覚に酔いしれながら、「永遠にこの人を愛します」などとしらじらしく誓言できそうな気がしていた。  結婚式ばかりではない。披露宴もまた然りで、ぐっとゴージャスな海辺のホテルか何かを借りきって、楽団なんかも呼んでしまって、出席者全員とともに新郎新婦が優雅に踊りまくる、というのも人生にまたとないひとときではないか。  その時、私はパーティの主役。月並な生き方をしている人間に、自分が主役のパーティなんぞ、おいそれとあるわけがない。せいぜい結婚式の披露宴くらいである。「おめでとう」「おめでとう」と嘘っぽいが誠実味あふれる、出席者一同の祝辞を一身に浴びて、何回もお色直しとやらに立ち、そうそう着る機会のないようなカクテルドレスを着替えてくるのも気分のいいもの。もう、そうなると、隣席で頭をかきかき照れている新郎など目に入らなくなる。まさに「アンタが主役!」の心境で自己陶酔し、文字通り「世界中で一番幸福な女」になりきってしまえるのである。  私が憧れたのは、そうした一連の�儀式�だけであって、決して結婚そのものではなかった。今ではその�儀式�もタカが知れてしまったし、それに自分で出版記念パーティだの何だのをやって、パーティの主役にもなったから、結婚式などに憧れる気持ちはさらさらない。ただ当時の私の結婚式願望を、実に多くの人びとが、そのまま結婚願望に結びつけているのを見るにつけ、おかしくてたまらなくなるのである。  電車の中|吊《つ》り広告などによくある、結婚式場のポスターには、たいてい、花嫁だけが一人でほほえんでいる写真が載っているが、まさにその通りで、結婚式には女の側から言えば、花婿など不要なのである。式の主役は自分でなければならず、花婿はあくまでも自分の引きたて役であるか、もしくは錯覚の愛を誓って、他人様に見せびらかすお人形でなければいけないわけである。  以前、漫画『サザエさん』の中に、アル中の男と結婚式をあげようとしている花嫁が、「だって、この人、酔っぱらってる時しか、私と結婚する気になってくれないんだもの」と語る場面があったが、ウェディング衣装に身を包んだ美しい花嫁にとって、必要なのはアル中であれ何であれ、�一緒に儀式に参加してくれる、花婿という名の人形�にすぎないのである。  式が済み、披露宴も終わり、結婚式という「アンタが主役」の豪華|絢爛《けんらん》たる催しものが幕を降ろす、その時から、苦渋に満ちた、長い忍耐の毎日が始まるということは、誰も考えようとしない。結婚式願望を抱く人びとは、結婚式が終わってからも、豪華絢爛たる幸福な毎日が続くという錯覚を抱きたがる。なんてったって結婚なのである。結婚は彼ら彼女らにとって、一も二もなく素晴らしいことなのである。結婚式場で参加者全員に「お幸せに!」と拍手で送られた二人が、その言葉通りに幸福に暮らしていけると信じられることなのである。  雀《すずめ》がさえずる声を窓の外に聞きながらの朝の食卓、温かい食事、背広を着せてやる妻、「行ってくるよ」と玄関を出ていく夫、朝のテレビのワイドショー、心地よくカーペットの上をすべるクリーナーの音、ベランダに干した夜具の香り……ああ、結婚!「お幸せに」の言葉は実現する。こんなに簡単に、こんなに呆気《あつけ》なく。  ここでも結婚式場での花嫁にとっての花婿と同様、妻にとって、夫は代用可能な�幸福�の代名詞にすぎなくなっている。夫はこの男でも、あるいは別のあの男でもよかったのだ。あの時、大学のキャンパスで突然、唇を奪っていったあの男でも、あるいは、毎朝、通勤電車の中で出会っていたあの男でもよかったのだ。もっと極端に言うと、満員電車でお尻をさわってきた痴漢でもよかった。この温かい、ぬるま湯のような幸福な結婚生活を続けていくために、はじめから女の側には�理想の結婚相手�などなかったも同然なのだ。  結婚願望それ自体では、相手の選択は二の次三の次になる。何故なら、結婚というものが内容ではなく、あくまでも形式だからである。  結婚式の時の幸福感も、結婚生活における幸福感も全て、相手があっての幸福感ではなく、結婚という儀式としての形式に基づく幸福感にすぎない。だから結婚における理想の相手というものも、その形式に基づく幸福感のレベルが同じである相手ということになる。  たとえば、結婚式をホテルオークラでやりたがる新郎と、山の中の小さな教会でやりたがる新婦との間には、共通した幸福感が持てないズレがおこってくる。新婚生活で、朝、玄関で「行ってきます」のキスをしてもらいたがる新婦と、それを照れていやがり、どうせやるなら、夜、寝床の中で濃厚なキスを……と思っている新郎との間にも、同じように共通の幸福感は湧いてこない。  夫と妻の両者の結婚幻想の形式が同じである時、初めて二人は互いにとって理想の相手となり得るわけである。このことは、とりもなおさず、互いが代用可能であることを意味する。同じ幻想をもっていさえすれば、形式としての結婚生活はつつがなく運ぶのであるから、何もAでなくてはならないという理由はどこにもなくなるのだ。  Aでなければならないというのは、結婚、あるいは同居生活が、形式ではなくて内容である場合のみ言えることであって、そうではない形式だけの結婚の場合、実質的に相手はAでもよく、Bでもよく、また、Cでもいいことになってくる。  結論を言えば、「結婚したい」と願っている人たちは、結婚した女(男)を演じたい、と願っているにすぎない。結婚というおもしろおかしい茶番劇の主人公になって、狭い舞台の上で、妻という名の人形、夫という名の人形を芝居したがっているにすぎない。  この芝居をしたがっている二人が、運よく出会って結ばれたとしたら、二人は一生、錯覚と幻想の中で、そうと気づかずに楽しげに、結婚生活を続けていけるだろうが、芝居をしたがらない人に芝居をしたがる人がくっついた場合は、悲劇である。  前者は、後者のパターン化された生活態度そのものにうんざりするだろうし、後者は後者で「何故、私の作った味噌汁《みそしる》を、おいしいと言って飲んでくれないの」などと雀のさえずる朝の食卓で愚痴をこぼすだろう。後者にとっては、エプロンかけて夫のために朝の味噌汁を作り、それを夫が「うまい!」と言って飲みほすという、あらかじめ出来あがったストーリーを、夫もともに演じてくれなければ、おもしろくないのである。  結婚願望は幻想であり、結婚式も自分一人のためでしかなく、結婚生活における相手は代用可能、結婚は所詮、夫と妻の演じるお芝居……そう言いきってしまっては、あまりにもむなしいという人がいるかもしれない。でも事実、このむなしいことを、飽きもせずに望み続ける独身集団が、いつの世でも存在しているのだ。  内容ではなく形式に憧れ、実際の夫婦のいやったらしい打算を、甘ったるいラブストーリーに置きかえて、「結婚したい」「もう結婚しなければ」と、バスに乗り遅れないように焦り出す人たちが、まだまだ後を絶たないのだ。  相手のいない結婚式に憧れて、取りかえのきく相手との結婚生活に憧れて、何らめでたくもないことなのに、「おめでとう」と祝福される、こっけいな立場にたつことに憧れて、得手勝手な結婚ストーリーをごていねいにも描き続ける、結婚願望大集団の錯覚が、錯覚だったと明らかになる日はいつのことだろうか。錯覚だとわからなければ、永遠に真実なのだろうが、だとしたら、真実など、もう私は信じることができない。 �巣�は守るものではなく、捨てるもの  人間ほど巣づくりの好きな動物はいない。  ものごころつくころから、将来の巣づくりに備えての教育を受け、必要な哲学をたたきこまれ、人より秀れた巣を作り出せる人間になるように育てられる。いい年をして巣のない人は、軽蔑されたり、馬鹿にされたりする。ひどい場合には性的に欠陥があるのではないかと噂《うわさ》される。  社会それ自体が、巣を持つ人間を信用するよう出来あがっているのだ。鳥にたとえれば巣の中に雌ドリ一羽、ヒナが二羽ほどピーチクパーチクと賑《にぎ》やかにさえずっている状態にある時、初めて、雄ドリは一人前の社会人として認められる。  簡単に巣を捨てる人は、社会的にドロップアウトした人と見なされて、非難される。社会の良識に従えば、一度、築いた巣は、どんなことがあっても捨てることは許されないのである。  私の家は郊外にあるので、ときどき近くの山から野鳥が飛んで来て、庭の木に羽を休めているのを見かけることがあるのだが、一年ほど前、まるまると太った野生の山バトが、庭の山桃の木に巣を作った。  毎日、二羽のつがいがどこから運んでくるのか、せわしなく、ワラや泥を細かい枝の間にひっかけていたのだが、ほどなく巣作りは完了。知らぬ間に雌は小さな卵を四つばかり産み落とした。卵をかえすこと、約一か月。雨の日も風の日も、雌と雄は交代で卵を暖めていたが、ある朝、ほとんど同時に四つの卵がかえった。かすかにヒナのさえずる声が聞こえてくる。  今度は雌が中心になってヒナを外敵から守り、雄は野山を飛びまわって来ては、せっせとエサを運んだ。  そして、どのくらいの時間がたったのだろう。私が仕事に忙殺されて、庭の彼らの巣を見ない日がしばらく続いたが、数週間後、ふと思い出してのぞいてみると、そこはもう、もぬけのからだった。本当にわずか数週間の間に、山バトの親子は、巣を捨てて飛び立っていってしまったのだった。彼らが残していった巣の中には、枯れ葉が埃《ほこり》をかぶって敷かれてあっただけ。戻ってくる気配はない。  人間だったら、こうはいくまい——と私はその時思ったものだ。あんなに一生懸命、寝る間も惜しんで作りあげた巣を、こんなにいとも簡単に捨て去って、次の旅に発つことなど、人間だったらできはしない。  人間にとって、作りあげた巣というものは、社会における安息所という以上に、個人のアイデンティティ(身元)を証明する、ひとつの顔である。男の側から見れば、妻と呼べる女と、その女との間にできた子供とともに、自分の住める�巣�がなければ、個人が確立したとは言えないくらい、巣の価値は大きい。女の側から見ても同じである。結婚して夫と呼べる男と子供とともに�巣�をもってこそ初めて、彼女は社会や世間に何ら気兼ねなく顔を向けることができる。  断っておくが、ここで言う�巣�とは、決してマイホームそのものではない。大ざっぱに言ってしまえば、�結婚�、あるいは�家庭�ということである。巣を作るということは即ち、結婚して家庭をもつということだ。自分だけのファミリーを築くということだ。  ニュー・ファミリーなどという言葉が昨今流行しているようだが、これも人間の巣づくり願望を端的に表わしている。男と女はこぞって結婚して、ファミリーを築きたがるのだ。一度築いてしまったら、この人間社会では、そう簡単にはこわしてしまえないことを承知の上で、老いも若きも一丸となって、「私のファミリー」「ぼくのファミリー」を求めて狂奔する。  巣づくりに励まずに、いつまでたっても悠々自適の生活をしているひとりものには、男女を問わず、�変わりもの�の烙印が押される。 「だって、淋しいじゃないの」と、ある巣づくり専門家は言った。 「そりゃあ、適齢期なんて気にしないわよ。でも、このまま、ずっと一人で生きていける自信はないわ。淋しくって生きていけない。暖かい家庭があってこそ、女も幸福が得られるってものよ」  じゃあ、別に愛情なんか感じてない男とでも、巣づくりができるわね、淋しくさえなければいいんだから、と私が言うと、彼女は「とんでもない」と首を横にふった。「愛してる人とじゃなくちゃ、家庭をもとうという気にはなれないわ」  愛していると錯覚できる男と巣づくりに励んで、そのうちベビーが生まれて、ハイ、ファミリーの一ちょうあがり……というところ。  昔から、いい年をしてひとりものを通している人に、世間はよく「そろそろ身を固めたら」とすすめてきたものだが、ファミリーができあがるということは、まさに「身を固める」の言葉通り、どっしりとその�巣�の中に、自分の居場所を固定化させるということなのである。固定化させてしまえば、もう、淋しいことはあり得ない。ファミリーは永遠。�巣�も永遠。前述した山バトのように、子育てを短期間にかたづけて、巣立っていくようなことを、人間さまは決してなさらないのだ。  従って、子供は夫婦の�愛の結晶�となる。二人で汗水たらして作りかけた�巣�の最後の仕上げ、というわけである。すさまじいのに至っては、子供を作るために結婚した、という人も少なくない。初めから一刻も早く、�巣づくり�の総仕上げを行なうことをめざしていたということで、この種の男に気前よく、自分の腹を貸してやる女の気が知れないというものである。  実際、何組のつがいが巣づくり以外の目的で、純粋に二人の子供を欲しがっているか疑問である。「できてしまったから生む」夫婦、「かすがいにするために二人は生んでおこう」と言い合う夫婦、みな全て、動機は巣づくりのためだ。 「自分の分身を作っておきたい」と気取るのも、結局は巣づくりのためでしかない。たまたま同じ巣の中にいる相手の腹を借りて、分身製造をしてもらうわけだ。できた子供は、同じ巣の中のファミリーの一員となる。  これらのつがいたちは、ほとんど、結婚してすぐに子供を作り始める。「愛してるよ、君の子供がほしい」「私もよ。あなたの子供がほしい」とかなんとか乳繰りあいながら、少しでも早く�巣�を完成させるために、二人は狂ったように分身の登場を願う。  夫婦の愛が、この先何年後かにどうなるかを見届けてから、あらためて子供製造にかかろうという者は少ない。とにもかくにも結婚したつがいなのだから、分身を作ってファミリーにしてしまわなくちゃ……と両者は焦る。三年後、五年後には、互いの愛情も冷めてくるかもしれない、だから今のうちに……と言わんばかりだ。  本当の�愛の結晶�というのは、そんなものではない。巣づくりのために性行為に励んで、できた子供は愛の結晶でも何でもない。単なる規格品、ありていに言えば、オモチャである。そのオモチャが仕上がった時、一つの巣は完成するのだ。あとは子育てメシタキばあさんと、月給運搬人の、何の変哲もない、ぬるま湯につかったような�巣�の上での生活が、ダラダラと続くだけ。 �愛の結晶�という言葉が存在するとしたら、�巣�を離れたところで、純粋に男と女が一つの新しい生命を作り出した時でしかあり得ない。 �巣�は男と女、果ては子供まで、規格品にさせてしまう。規格化された個人は、社会においてはそれなりのアイデンティティを確立できるが、もう個人の尊厳、人間らしさを自由に歌うことはできなくなる。愛情も規格化され、「夫ゆえ愛する」「妻ゆえ愛する」ことはあっても、「男ゆえ」「女ゆえ」相手を愛するということはあり得なくなってくる。  作家の富岡多恵子氏が某紙に、 「二人(夫婦)で仕事していても、男が庭なんか見てると『ホー、庭の木ィ見てはる。あの人天才やないか』となり、女がそうしてると『なんやあの嫁はん、アホとちゃうか。昼間からボーとして』となる」と書いていたけれど、一度、巣の中に入りこむと、女は男以上に一層、規格品としての�妻�の役割を、社会から強制される羽目に陥る。巣の中の女はなかなか仕事を得られない、というのもこのためである。  ただ、ここで言えるのは、巣の中に安住の地を見つけて、規格化されようが何をされようがお構いなしに、その巣を守り通そうとする種族がいるため、全体としての�巣�がなかなか消滅できないでいる、ということである。  ヤングミセス向け女性誌には、よく「夫から離婚されない法」とか「夫に知られずにこっそり浮気する法」などという馬鹿げた特集が組まれているが、これも�巣�をこわされたくない女たちに向けられた、至極、真面目な記事なのであろう。�巣�を勝ち得た女は、社会から要請される妻と母親の役割を保ってさえいれば、少なくとも不法に離婚やその他の形で安住の場を奪われる心配はない。  真から貞淑でない女も、母性的でない女も、巣の中で貞淑であるふりをし、母性的であるふりをしていればいいのである。それ以外の自分の悪《あ》しき側面は、隠し通していればいいわけだが、その隠し方は結構、難しいテクニックを要する。何とかして隠し続けて�巣�を我がものに……という真剣な女たちは、だからこぞって、各女性誌のハウツーものに群がるという結果になる。  日本に住む外人女性は、「日本の主婦たちはあの狭く小さな団地の中で、一体、何をしているのか」と怪訝《けげん》な顔で質問してくるというが、この種の質問は素朴なだけに、真をついているところがある。まったく私も同じような疑問を持たざるを得ない。  揺るぎない�巣�と妻の座と母の資格を得た、飽食状態の女たちは、あとはもう何もすることがないといった表情で、日がな一日、日だまりの中でおしゃべりに興じている。彼女らが何かをしなくてはいけないとしたら、毎日の献立を考えることと、子供のPTAの会合に出ること以外は、ただひとえに倒壊を案じて�巣�を守り通すことだけだ。 �巣�の中には安心こそあれ、緊張感はあってはならない。従って、男も女もひとたび�巣�が完成してしまうと、まず間違いなく太り出す。感性とともに、肉体も急速に弛緩してくるのである。  先日、�不倫の恋�で世間を賑わせていた仁科明子が、松方弘樹とともにTVで晴れて婚約発表を行なっていたものを見たが、仁科嬢の表情に、かつてのキラキラした、緊張感あふれる輝きを見ることはできなかった。以前より丸味を帯びた顔つきは、彼女の美しさを消し、女優であった当時の面影を失わせ、彼女をただの女……�巣�に入りこんだただの女にすぎなくさせていた。 �巣�が介在してくることによって、一人の女はこうも変わるものかと、恐れいったのであるが、御本人が、この変貌《へんぼう》をごく当たり前のものと解釈していけるのであれば、私ごとき第三者の立ち入る問題ではないのだろう。  だがやはり、�巣�がそれほどまでに女を変え、満足させ、あげくの果てに醜くさせるということは、事実のようだ。仁科嬢は席上、記者に「浮気についてどう考えますか」と聞かれて、にっこりと笑い、「この人はベテランだから、私にわからないようにやってくれるでしょう」と答えていた。 「わからなければいい。家庭をこわさないでいてくれれば何をしてもいい」という、実に消極的防衛的な発言に、すっかり巣づくりカアチャンになりきってしまっている彼女の、月並な部分を感じて不愉快でさえあった。  女ばかりではない。男の中にも�巣�に対する、実に幼稚な執着心があるのも事実である。せっかく築きあげたものは、絶対、手放したくないとする貪欲《どんよく》さが、彼らにとっての�巣�をますます形式的なものに変えてしまう。妻と別れたいが、�巣�を明け渡してしまうのは惜しいとして、別れずに我慢している男、�巣�を手放したら社会的に抹殺されてしまうからと、実体のない形ばかりの場所にしがみついて生きている男……。 �巣�をあくまでも一時的なものと解釈して、作ってはこわし、作ってはまたこわしていける、山バトのような男は少ない。  私は�巣�とは本質的にこわれるものだと思っている。いずれこわれるものに対して、社会的にアイデンティティを確立したいという、ただそれだけの理由で、完璧《かんぺき》な�巣づくり�にいそしむ気持ちにはなれない。巣づくりは、それを行なっている間は楽しくても、仕上がってしまうと、また別の巣を作りたくなるものだと思う。 �巣�は守るものではなくて、捨てていくもの、のり越えていくものだ。そのことを踏まえている人とでなければ、私は、その時その時の�巣�を、共同で製作していこうという気になれない。 九章 愛の神話は信じられない  母性本能という神話にまどわされるな  最近の青少年のためのセックス相談所には、母親の異常な愛からどうやって逃れたらいいか、という少年の悩みが増えてきたという。夜になると、自分のベッドの中に母親がもぐりこんでくるので、おかしな気分になってしまって困るとか、風呂に入っていると必ず母親がのぞきに来て、身体のすみずみまで洗ってくれるのを断ったら、その場で泣かれてしまったとか、果てはオナニーのやり方を母が教えてくれて、今では母親の手を借りなければ射精できなくなってしまったとか……。  風呂場で、陰毛の生えかかったわが息子の肉体を洗ってやる母親の、のぞき趣味も薄気味悪いが、オナニーをしてやる母親にいたっては、言語道断。性生活に恵まれず、息子のペニスと成人した男のペニスを、オーバーラップさせているらしい。  この種の母親は、程度の差こそあれ、母性愛を主軸にして、自分の息子に対する行為を神聖化させているのだろう。息子のオナニーを手伝ってやるところまでいかなくとも、いつ夢精してもいいように、息子のシーツの上にタオルを毎晩敷きにくる母親とか、夢精で汚れたパンツを、非常なよろこびをもって手で洗ってやる母親など、全国にゴマンといることだろうと思われる。  本人たちに言わせれば、それは異常なことでも何でもない。母親として、息子に対する当然の愛情の結果だということになるのだが、私には教育ママを含めたこのタイプの母親は、息子に対する淫猥《いんわい》な想像を、母性愛にすりかえて語っているにすぎないと思われる。  よく電車の中で、まだ十分若い母親が、中学生くらいの息子に席をとってもらってそこに座り、うっとりとした目でたくましく成長した彼を見上げている光景を見るけれど、あれなど母親が息子を見る目ではない。明らかに女が男を見る目である。  結局、母性愛という美しい無償の愛が、この世に存在するのかどうか、私は未だに疑問だ。 『母をたずねて三千里』だの、最近は『岸壁の母』だの、昔から現在に至るまで、母は神格化された絶対の存在、そして、捨て身の愛情で子を思う、マリア様のような存在だった。生まれた子を愛しいつくしみ、自分を犠牲にしてまでも一人前に育てあげるのが、女のあるべき姿だというように、私たちは教えこまれてきた。  子供に向けられるものだけではない。男一般に対しても、女は母性本能をくすぐられて、いとおしく思ったり、世話をしてやりたいと望んだりする習性があるのだと、社会は私たちに思いこませてきた。女なら誰《だれ》でも、生活の細かいところに目が行き届き、男を居心地よくさせる本能を持っているという神話は、万人が信じるところの絶対のものになった。誰もそれを疑おうともしなかった。とくに男は……。  職場などで、男子社員のワイシャツのボタンがとれかかっているのを見て、素早く糸と針を取り出す女、背広についている糸くずを見逃さない女、不必要なほど何回もお茶を次から次へといれかえる女。男が気持ち良く仕事や社会生活を続けていくために、執拗《しつよう》に男の世話をやこうとする女たちは、彼らにとって必要な存在であり、同時に女ならそうあることがあたりまえと見なされてきた。どんなに馬鹿な女であっても、その「当たり前の母性」をもっていさえすれば、彼らは彼女を一つの人格として、寛大に認めようとする。認めるだけでなく、男たちは自分のか弱き精神の慰安婦として、彼女を利用する。  失恋したり、失意のどん底にあったりする男が、十分に母性的な、母性だけが取り柄の女のいる店へ通って、刹那《せつな》の満足を味わいたがるのは、まさにそのためである。  だが一方、この母性をもたない女、神話的母性をくつがえして、一個人としておのおのの個性に基づいた生き方をしている女は、ともすれば彼らに全人格を否定されてしまいかねない。「ワイシャツのボタンがとれてるのに気づかない。あの女はもう女じゃない」「お茶の入れ方が悪い。こんなぬるくてまずいお茶を入れるようじゃ、あの女は女として認められない」……。  ワイシャツのボタンを即座につけてやることが、女に求められる母性だったら、いつくしみ合った老夫婦の夫が、老いた妻のために暖かい綿入れを買ってきてやるのは何なのか。男が恋人の重たい荷物を持ってやろうとするのは何なのか。それは、母性でも父性でもない。男女の別なく、人間なら誰でも持ち合わせている�思いやり�だ。  ワイシャツのボタンをつけない女でも、他の面で思いやりを見せることがある。お茶の入れ方が悪い女でも同じことだ。なのに、女の本能として母性がうたわれた時から、私たちはこの�思いやり�を強制されるわけである。ありとあらゆる�思いやり�を見せてやることが、どんな情況においても、相手が誰であろうとおかまいなしに、女であるというただそれだけの理由で、私たちの義務となる。  強制された母性としての�思いやり�——デッチ上げられた母性本能にまどわされて、どれだけ多くの女たちが裸の自分を見せることを拒んできたことか。  困ったことに男だけでなく、女の中にも母性の神話を信じこんで、母性のない女はあり得ないといきまくような人も多い。  先日、ある女性が「愛する人の子を産みたいと思うのは、私がやっぱり女だからなのね」などと、三文恋愛小説のヒロインのようなことを言ったので、私は大笑いして「ちがうよ。そう思うのは、あなたが子供を産むことによって、愛する男との絆《きずな》を作ろうとたくらんでいるからよ」と言ってやった。すると彼女、たいそうな剣幕で怒り出し「あなたは母性というものがない、鬼のような女ね。愛する人との子供が、お腹の中であばれているのを感じてごらんなさいよ。この子のためには死んでもいいと思うんだから」と答えた。  じゃあ聞きますけどね、と私は実際に口に出しはしなかったが、心の中でつぶやいた。その母性がありながら、女たちが子殺し、子捨てに走るのは、何故だかわかる? 産まれた子が、いかに愛する人との間にできた子であっても、三日間夜泣きに悩まされて、こんな子、どこかでもらってくれればいいと思う女たちの悲鳴が絶えないのは、何故だかわかる? 母性って何? 母性本能って何?  彼女は私を母性愛のない、鬼のような女だと言ったが、その強制された母性愛という言葉にだまされて、いかに多くの女たちが泣いてきたか彼女は気づきたがらない。  一組の男女の間に子供が生まれたとする。人間の子供は、生まれてから歩き出すまで約一年、歩き出してから一人で自分の身のまわりの始末が完全にできるようになるまで、なんと三年近くかかる。動物の子が、ほとんど生まれおちると同時にすぐ歩き出し、エサを自分でとれるようになるまでそう長い期間は要しないのに比べると、大変な差である。  その面倒な人間の子供を長い間危険から守り、食べものを与え、育てあげるためには、親の献身が必要となってくる。社会は生まれた子を決して歓迎しない。育ててくれるはずもない。痴呆《ちほう》のような頭のない、常識も社会道徳も法律も知らない、生まれたての赤ん坊が一人前になって、はじめて社会は彼を認めるのだ。それまでの間は、その子を作った男女に育てあげる義務を課して、社会は知らんふりを決めこむ。おまえらで一人前の人間にしてやってくれとそっぽを向く。  大変な役目をおおせつかった男女は、そこで親の無償の愛という幻想をたたきこまれる。生まれた子を愛せよ、さもなくばおまえは人非人だ——とその幻想は脅迫する。とくに母親に対しての脅迫度がすさまじい。髪ふり乱して子供を育てるのに必死になっているやさしい母親の姿は美徳とされるが、子供を放ったらかして芝居を見に行く母親の姿は、悪徳の典型となる。  おまえが産んだんだ、おまえが産んだんだ、その腹で栄養をやり、おまえの股ぐらの間からこの子はでてきたんだ……と社会はがなりたてる。かわいいだろう、かわいいと思え、そう思ってやさしく捨て身になって育てあげろ!  父親は子供への愛を、外に働きに出て稼いでくる金によって表現するが、母親は別の形……四六時中そばにくっついて、労を惜しまずにその子に尽くすことによって、表現しなければならなくなってくる。その苦しい育児の時間を、社会は母性愛という言葉を作りあげて正当化しようとする。  だいたい社会は、母親に育児を放り出されては困るわけだ。父親からは労働を提供してもらっているので、彼に対しては「おまえが育てろ」ときついことは言えない(社会はそもそも父親に対しては弱味があるのだ)。そうなると、是が非でも母親をうまくだまくらかして、母性愛だの母性本能だのという美名のもとに、赤ん坊を育てさせなければならない。  この社会の陰謀は大成功をおさめた。女たちは自分らが母性愛に満ちているものだと錯覚し、そのことにおおいに満足し、産みおとした赤ん坊を必死になって育てようとした。その子がどんなに醜くても、どんなに知能指数が低くても、どんなに気だてが悪くても、自分の子であるという、ただそれだけの理由で、何を犠牲にしてもこの子だけは……と頑張ってきた。  男たちは男たちで、この母性本能というものを信じ、女にはどんな女でも母性があると思いこみ、ついには女なら、どんな女でも子供を欲しがるものだという結論に達した。「俺の子が欲しくないか」とたずねて「いいえ」と答える女は、自分への愛情が足りないか、さもなくば母性のまったく失われた、それこそ鬼のような女だと思うようになってきた。  だから女たちは、自分が母性のない女と思われることを極度に嫌がった。女なら愛する男の子供を欲しがるものだと、自分で暗示にかけた。お腹がふくらんできても決して醜いなどと思わずに、それは美しい母の姿なのだと自分に言いきかせてきた。  母になることは素晴らしい、母性本能は女だけのもの、なんて女は幸福なんでしょう、子供を産んでごらんなさいよ、あなたもあなたも、そしてそちらのあなたも、そうよ、いとおしくて食べちゃいたくなるんだから——女たちは、母性本能があたかも女だけの特権であるかのように錯覚し、そして、その錯覚のもとに子供を産み、育てることを、何のためらいもなく全面的に引き受けた。  だが、私は子供に足をとられてがんじがらめになっている女、子供への愛が結局は自分のエゴにすぎなくなっている女をたくさん知っている。ある母親は「子供さえいなかったら、私はもっと自由だった」と告白するし、別の母親は「こんなに愛して育てたのに、子供は結局は私から離れていく。母親とは何だったのか」と溜息《ためいき》をつく。  男に身をまかせ、男の要求するままに子供を孕み、そして生まれた子をどうしても育てあげる自信がないとして、コインロッカーにおしこむ女がいる。焼却炉に放りこむ女がいる。親のもとから巣だとうとする子供の身勝手さに耐えきれずに、親子ゲンカを繰り返す女がいる。あるいは、自分の見栄とエゴのために、子供にエリートコースを歩くことを強制し、恥も外聞もなく教育に奔走する女がいる。  これらはみんな、母性愛の神話の結果である。母性愛という美辞麗句で飾りたてて、全ての女に子育てを奨励した社会が生んだ悲しい結末である。  だが、そこにあるのは母性愛でも母性本能でもなんでもない。単なる一人の人間のエゴにすぎなかった。  冒頭に書いたような、息子のオナニーを手伝ってやる母親も、夢精のためのタオルをシーツの上に敷いてやる母親も、「過保護」という単純な言い方では片づけられない、人間の狂気をあわせもっている。そしてその狂気は、彼女が彼の母親だという理由からかけ離れたところにある、人間の本質的エゴである。  母親は息子に、自分が若かったころ理想としていた、成熟した男を求め、父親は娘に女を求める。近親相姦《そうかん》の可能性は、いついかなる場合でも、どんな家庭においてでもつきまとう。近親相姦のタブーを知っているから、人びとは肉親には手を出すまいとしているだけだ。息子のオナニーを手伝ってやる母親に情欲がまったくなかっただろうか。息子と街を歩くとき、手を組みながら歩きたいと望む母親に、母性愛以外の愛情がまったくないと言いきれるだろうか。  母性愛という名を借りた女のエゴは、手を変え品を変えてあらわれてくる。受験地獄に子を追いやり、尻をたたいては叱咤《しつた》激励する母親に、この子をうまくエリートコースにのせて将来は逆に面倒をみてもらおうと思う計算がなかっただろうか。娘の小学校入学式に、最高級のお召しを着ていきたがる母親に、娘のお祝いごとにかこつけて、着飾った自分を人びとに見せたいと思うエゴがなかっただろうか。  また、「愛する人の子を産むのが女の幸せ」と信じる若い女たちの心の奥に、「子供さえ作っておけば、この男はおいそれと私を捨てることはできない」という悪だくみがなかっただろうか。子だくさんの子供好きを自称する夫婦は、果たして子供をペット代わりにかわいがっていないと断言できるだろうか。  子供の自殺や犯罪が増え、子供たちは口ぐちに「親は何もわかっちゃいない」と言う。最近に至って私はつくづく、子供はもう両親の手に負えないところまで来てしまっていると思う。親の愛情、即ち、おしつけられた父性愛や母性愛だけで画一化された子育てが成功したのは昔の話だ。母性の神話が必然的に切り崩されてきた今では、一組の男女が作った子供は、生まれ落ちると同時に、社会が責任をとって育てねばならないのではないか。今のところ、社会にはそうした受け入れ体制は皆無だが、勇気ある金持ちや団体が親になり代わって子を預かり、原点にもどって、人間らしい子育てをしなければならない時代がくるのではないかと、私は思っている。  母性の神話はまだまだ、多くの人びとの間に確実に生き続けてはいるけれど、神話であるとわからずに、女たちがいいように母性に操られている実態を見ると、私はうそ寒い気持ちになる。母性なんか父性と同様、ありっこないのだ。社会が女に子育てをおしつけるために作り出したお世辞にすぎない。 「私、子供が大好き」と無邪気に男にむかって言える女を、社会は微笑しながら受けいれる。私のように「仔犬なら好きだけど、子供は好きじゃない」と言おうものなら、さしずめ「母性のない鬼のような女」という烙印《らくいん》をおされるのだ。  鬼でけっこう。私は母性の神話を信じない。みんなみんな自分のエゴで子供を作り、育てているだけだ。そのことに気づかずに、あやしげな無償の愛で、子供になれなれしく頬《ほお》ずりする鈍感な人たちは、私よりもっと鬼だ。  親孝行は一つの契約である  日本人ほど、堅固な�家意識�をもっている国民は少ないのではないかと思う。最近TVなどで「世界は一家、人類はみな兄弟」などと叫んでいるおっさんがいるけれど、あれも日本人的�家意識�の表われである。  何も世界中がファミリーになり、人類がみなヤクザの兄弟もどきの契りを交わさなくとも、世の中、平和な時は平和だし、戦争に突入する時は突入してしまうのだ。�家�にさえしてしまえば、少なくとも�家�の中の人間たちは、絶対に争い合うことはないだろうとする、旧態依然とした�家意識�はいい加減にやめてほしいものである。 �家�はそれ自体では絶対のものである。閉鎖性が強く、決して他の�家�と混合することは許されない。先祖代々が血と汗にまみれて、○○家をお築きになられたのだから、おいそれとは他家の者を中に入れることはできない……となる。他家の者が敷居をまたげるようになるためには、婚姻という方法を使うしかない。女が姓を変え、その家の姓を名乗って初めて、事実上、その家の人間となれる。  同じ家の中にも、本家だの分家だのといった、政党の派閥のようなものがある。分家の人間は、本家の人間に対して頭があがらない。まるで本家にかしずく侍従である。本家と分家の相互の関係は未来|永劫《えいごう》、主従関係を保ち続けていくわけである。  人間が死んだ時も、日本人は�家�を気にする。その人間を埋める墓に異常なほどの神経を使う。墓地不足で困っているにもかかわらず、わが国には、共同霊園やマンション式墓地を嫌う人が圧倒的に多い。ちゃんと「○○家の墓」と銘打った墓を欲しがる。死んでしまえば同じことなのに「絶対、死んだら本家の墓に入れてくれ」とか「嫁ぎ先の墓ではなく、私が生まれ育った家の墓に入れてほしい」と、生きている間に、みっともなくがなりたてる人がたくさんいる。  私の知っているアメリカ人の女性は、娘を病気で亡くしたあと、平然と彼女の骨をゴールデン・ゲートの上からばらまいたという。やれ、「家だ」「墓地だ」とこだわりたがる日本人にしてみれば、想像を絶する冷酷な行為である。日本人ならば「娘の骨を犬の骨同然に川や海に投げ捨てるなど、人間性無視もはなはだしい。死んだらきちんと淋しくないように、先祖代々の墓に一緒に埋めてやるべきだ」と乙女チックなセンチメンタリズムにおぼれるのが普通だ。  死んだ後までも、家族意識をひきずっていきたがるのが日本人なのである。アメリカ人の目からすれば、こうして、骨になってまで家の問題にこだわり続ける日本人の体質は、理解し難いこっけいなものに見えるだろう。  死んだら肉体は灰と化す。残された人びとの間に、故人の魂は永遠に生きるだろうが、灰となった肉体はどうあがいても灰でしかないのだ。その灰までも、生前の�家�の中におさめておきたがる日本人と、死んだら灰となって土に返るだけと、あっさり割りきるアメリカ人との間には、大きな差がある。  死んだ肉体を、ごく自然に大地の中へ返してやれるアメリカ人は、それだけ他人に対しての執着心が少ない。親子の間柄であってすらそうである。 『菊と刀』の著者、ルース・ベネディクトも触れているように、アメリカ人の親は、幼いころは非常に子供を厳しくしつけるが、ある程度の年齢になると、子を手放そうとする。自立した一つの個性に、たとえ親であってもベタベタとつきまとうことは許されない、という考え方だ。  子供の方も年を経るに従って、親から独立しようとするようになる。親からの干渉を拒否するかわりに、彼らは親に甘えることも拒否する。いい年をして、親に依存することは、アメリカ社会においては恥なのである。たとえ未婚の母や父になろうと、学校を退学させられようと、全て自分で解決しなければならない。親と子は、ここへきて完全に別人格、別個性となる。  ところが日本人となると、まったく逆。日本人の親は、幼いころから甘やかし放題甘やかしておいて、子供が一人前になっても独立させようとしない。二十歳を過ぎても子供扱いにして、何やかやと世話をやきたがる。子供は子供で、干渉されることを嫌がりながらも、精神が独立していないために、家を飛び出すこともできず、いつまでも親のもとでねっとりとした親子関係を結び続けていく。 「親のためよ」とある女は言った。「両親は私を愛してくれてるし、私も両親を愛してる。親子の愛情は、どんな愛情の中でも最高のものよ」  彼女は「親のため」と称して、適齢期を必要以上に意識し、愛してもいない某大手商社の商社マンと見合結婚した。そして夫の両親との同居生活。新しい�親�との折り合いがまずく、結婚後四年で離婚。彼女は再び自分の親のもとに戻った。そして今度は、世間体を気にする親のために、ひっそりと家にひきこもって家事手伝いをするようになる。 �親�の待つ、帰る�家�がなかったら……。物理的にはあっても、アメリカ人のように結婚に失敗したからといってその�家�に戻ることは、�子供�のやることだという考え方があったら、彼女はどうなってしまっただろうか。  一人で生きられないような女に育てたがる親と、一人で生きることを努力しない子供——日本人における�家�はそのような親子関係の図式の中に、両者にとって必要不可欠のものとして存在している。「子供のため」という母性、父性の幻想をもった両親。「親のため」といっては、自分の半人前の人格を正当化して、家にいついてしまう子供。そこに生まれる�家意識�は、日本人特有のものである。  この前の項で、母性愛は神話であると書いたけれど、言ってしまえば、子供の親に対する愛も神話である。もともと母性や父性など持っていない親が、作りものの大袈裟《おおげさ》な愛情を子に示すものだから、子供としてもそれに応えないわけにはいかない。 「私たちはアナタのことを案じ、愛してるわよ」と親が言えば、子供も「そうですか。私もおっかさんやおとっつぁんをいつまでも慕い続けますよ」と言う。そうでも答えておかなければ、社会における親子のつながり、果ては日本人のお好きな�家意識�を保持していくことができなくなるからである。要するに、親も子も互いに無償に愛している�ふり�をし続けるわけである。  私が幼いころ、両親によく「パパとママとどっちが好き?」と聞かれた。この種の二者択一という、残酷な質問を浴びせる親は、昔も今も結構多いものらしい。私はそのころ、母よりも父としゃべることが多かったので、別にたいして考えもせず、「パパのほう」と答えた。それは本当に、特別な思惑があってそう答えたのではなく、単なる思いつきだった。だが私がそう答えると、母はふっと淋しそうな表情を見せる。子供ごころにも母が気の毒になった私は、いつもあわてて「でもママも大好き」とつけ加えるのだった。  それは若夫婦とガキが楽しむ、言葉のゲームにすぎないものだったかもしれない。しかし、幼いなりに私は子供として、親を平等に愛しているという態度を見せ続けることが、親に対する礼儀なのではないかと感じていた。  不遜《ふそん》な言い方を許してもらえば、私はどちらかというと、常に親の愛をありがたいと思ったことのない子供だった。最近、親に放ったらかしにされてしまうと、淋しがって非行に走る連中が増えてきたが、私にしてみれば、こうるさい親の干渉から逃れて、一人になることはこのうえもなく素晴らしいことだった。私は親の愛をうるさく感じたことは何度もあったが、放ったらかしにされて淋しいと思ったことは一度もない。  親の愛を感じていれば、子供も愛を返してやる責任を負わねばならないが、放ったらかしにされていればその分だけ、�親孝行�の責任から解放される。だから、むしろ放ったらかしにされることを望んだ。  私にとっての�親孝行�とは、その程度のことだった。  人並に親の肩をもんでやったり、親の命ずるままに部屋の掃除や皿洗いなどもやったけれど、それは親子の関係でなくてもできる行為だと思っていた。そしてそれは事実その通りだった。  スネかじりの身を思えばこその、自己保全の道が、親孝行という道徳のベールをかぶるととたんに、周囲の賞賛の的になる。「お宅のお嬢ちゃんは、本当にやさしい親御さん思いのお嬢ちゃんねえ」という、近所のおばさんの賞め言葉に気をよくしている母の陰で私は、「本当はちっともやさしくなんかないのに」と思っていたものだった。  親の犠牲的愛に、子がやさしさでもって報いるというのは、一つの取り引きであって、それ以上のものではない。センチメンタルに親を思うことが親孝行なのではない。親孝行とは、親の愛に報いるということである。  親の愛に報いるということは、親が母性愛だとか父性愛だとかいった幻想にとらわれて、捨て身になって育ててくれたその労力に対して、お返しをするということである。そして、そのお返しとは、広い意味での物質的援助である。道徳的に言うならば「やさしさと思いやりをこめた、金銭的協力を惜しまない」ということである。  老化しておいぼれた親を、最後まで見捨てないのは子供である……と、社会はその美しい親子愛を高らかに歌うが、それはおいぼれを引き受けるだけの余裕が、社会にないからである。  病気、怪我、精神の支障、老人ボケ……。さまざまな老いの症状があらわれてきた人間たちに、いちいち優しい言葉をかけてやるほど社会は暇じゃない。優しい言葉をかけ、その苦労をねぎらい、果ては金銭的援助を惜しまないでやってくれるのは、その人たちの子供しかいないわけだ。  社会はそこで親孝行の道徳を作る。老人ホームがあふれて困るから、親孝行として子供は老人と暮らせと言ってくる。老人の愚痴につき合うのはごめんだから、親孝行として子供は彼らに愛情をもって接するべきだと言ってくる。おまけに親に対しての出費を惜しむな、それが親の愛に報いる唯一の方法だと言ってくる。  社会は非情で冷酷なのだ。そして同時にいんちきな詐欺師だ。親孝行という幻想を仕立てあげることにより、子供に老いぼれじいさん、ばあさんを任せきりにさせ、親子の関係を強化させて�家�を守らせ、保守安泰の方向に人びとを向かわせようとしているのだ。  そうした社会を変えない限り、私たちは親孝行の神話を否応《いやおう》なくもたされていくだろう。  だが、これらの神話が存在することによってしか、親子の間柄が親と子という形で存続し得ないのだとしたら、私たちは孝行娘、孝行息子の役を十分に果たしてやらなければなるまい。  私の母の知人に五十八歳になる婦人がいる。この人は今、週に三日間、九十歳の父親の世話をしに、父の家へ通っている。  彼女の父親は十年前に脳いっ血で倒れたまま、半身不随で寝たきり。時おり意識がもどるが、ほとんど眠ったままで、いわば垂れ流しの状態である。病院も見放したし、完全看護の病棟へ入院させておくのも莫大《ばくだい》な金がかかるというので、家へ連れ帰ったのだが、彼女は一人娘。母親を亡くした今では、父の世話をするのは彼女しかいない。週のうち四日間は看護人を雇い、残る三日は彼女が世話をして、少しでも金を浮かせているそうである。その女性がこんなことを言った。 「不謹慎な話だけど、早く死ねばいいと思ってるわ。一日も早く、あのじいさんのウンチやオシッコから解放されたいのよ。私が何故、あのじいさんを見殺しにしないかというと、私自身が若いころ、あのじいさんの世話になったからお返ししなくちゃいけないという義務感のためだけ。愛情なんてこれっぽっちもありゃしない」  十年もの長い間、�親�という名のじいさんの、ウンチやオシッコの世話をしてきた彼女が思うのは、センチメンタルな親への哀れみでも何でもなかった。親子の取り引きの辛さ、ただそれだけだった。  この女性は孝行娘の役を必死で演じている。 「殺しちまいたい」という憎悪をひた隠しに隠して、自分が若いころ受けた親の無償の愛に、同じように�お返し�をしている。  親と子の現実はこんなものなんだと、私はその話を聞いて思った。  子供が成長すると同時に、親のもとを飛び立っていくのは当たり前のことだが、実際、私たちは生まれおちたその瞬間から、親を離れて、親子の取り引きを行なっているのだ。無償の愛などあるはずがない。  親が「子供のため」と言いわけをして、自分のために子供をエリートコースに乗せようと必死になるのと同様、子供も「親のため」と言いわけをして、自分のために親を利用する。自分のために親を愛しているふりをして、自分のために親孝行をかってでる。  この現実を指して「それではあまりに悲しい」と嘆く人がいたらお笑い草だ。みんな、そうやって、親と子が取り引きをし合って生きてきたのだ。  自然はこうるさい親をなぐり殺せと命じる。だが社会生活を営む私たちは、親と取り引きし合って、互いに愛し合っている芝居をしながら生きていかねばならない。そうでもしなければ、社会は滅びてしまうからだ。  私たちが親を愛し、大切に思うのは、全て自分のためなのだということを、肝に銘じておく必要がある。そして、自分がいる、この�家�が、どれだけたくさんの親子の契約、取り引きの上に出来あがってきたか、一度、思いおこしてみる必要がある。  血がつながっている者同士の間に、契約や取り引きはあり得ない、というのは、日本人の悪しき血縁幻想だ。血がつながっていようがいまいが、親と子も所詮は他人なのだ。所詮はべつべつの人格なのだ。甘ったれた親子の神話をぶちこわさない限り、私たちは本当に独立した人生を歩くことはできない。 十章 あるがままに生きよう  あなたは生まれながらのワルである  私は善人ぶっている人が嫌いである。社会や常識が要請した�いい人�を演技しているうちに、勧善懲悪よろしく、善を尊び悪を侮蔑《ぶべつ》するようになった人ほど、鼻もちならない人はいないと思うからである。  そもそも善とは何であるのか、どこからどこまでが善で、どこからどこまでが悪であると、杓子定規《しやくしじようぎ》のように計れるものなのだろうか。  善人ぶった人は、新聞でイルカが虐殺されているという記事を読むと、眉根《まゆね》を寄せて「ひどい! 何たることを!」と言う。彼らが毎日のように、牛や豚やクジラの肉を食べていることを忘れて……。あるいは、イルカが大量に出没するため、魚がとれず食うや食わずの状態になっている漁師たちの存在も忘れて……。  生きていくためには、やむを得ず、何かを排除していかねばならない時があるということが、善人ぶった人びとにはわからないのだ。彼らは口をそろえて、浜辺に血を流して横たわるイルカの群れを見ながら、非難する。 「人非人め! こんなかわいい生き物を……」  果たして彼らに、「人非人」と言う資格があるのかどうか。  最近の話だが、大阪の三菱銀行で猟銃人質殺傷事件があった。事件も解決し、しばらくたったある日、某主婦向けテレビ番組が、犯人の母親にインタビューしていたものを見た。  インタビュアーは善人ぶっていた。アンタの息子があんなことをしたのだから、アンタが責任をとるべきだと言わんばかりだった。母親は泣いていた。息子にかわって謝罪するとも言っていた。見ていて哀れだった。いや、哀れと言うより、残酷すぎた。  この老女には、何の責任もないことではなかったか。たとえば、犯人の母親であったとしても、血がつながっているというだけで、一人前の男の働いた悪事の責任を負う義務はないはずなのである。  かつての、浅間《あさま》山荘連合赤軍事件の時もそうだった。何の関係もない人が、ただ、父親母親であるというだけで引っぱり出され、無理矢理、国民の前で頭を下げさせられていた。善人ぶった人たちは皆いちように、彼らに石でも投げんばかりの勢いで毒づいた。  子の罪は親の罪……。何の認識もないくせに、善人ぶりながら、この封建的常識にしがみつく彼ら。ケンカの野次馬になりながら、言い分が明らかに常識的だと思われる方に味方し、もっともらしく悪者をやっつけようと、こぶしを握って応援する、無力な観客と同じである。  私は一度、知人の葬式に出た時、故人と何ら接触のなかった連中が、読経の間中、白いハンカチで目頭を押えているのを見て、そのわざとらしさに腹がたったことがある。案の定、彼らは葬式が終わると、連れ立って笑いさざめきながら、遊びの相談をしていたのだった。  善人ぶって、葬式の席で涙なんか流してほしくないと私は思った。涙が出ない葬式では、ただ黙ってうつむいていればよいのだ。  葬式の席では泣くものだという固定観念は、必然的に「人間によくなつく可愛いイルカを殺すのは悪だ」ということになり、また、「子供の罪は親が責任をとる」ということにつながってくる。何の疑問も抱かずに、こうしたことを信じ、実行し、それで自分は善人なのだと思いこんでいる人びとには、まったく反吐《へど》が出る。 「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」と言ったのは親鸞《しんらん》である。私はこの「いわんや悪人をや」という部分が好きである。  人殺しをし、近親|相姦《そうかん》にふけり、他人の配偶者とも姦通し、盗みを働き、人をだまして、人の家に火をつけ……こうした、悪事をしたい放題して死んでいった悪人でも、善人と同様往生するというのである。善人ぶった悪人、自分を善人だと信じている阿呆の多い世の中で、全ての人間は往生できる、と言いきったこのお坊さんは、善人の嘘《うそ》を知りつくしていたのだと思われる。  自分にまったく関係のない、人殺し事件や政治の腐敗などに対し、知ったような口ぶりで、「責任を感じます」などと語る、善人ぶった俗人たちに何がわかるだろう。 「あの犯人を生み出した社会に生きる一員として責任がある」と言いながらも、彼らは何ひとつ責任を負おうとせずに、うまく責任から逃れ、結局は善人の一人として、万人との連帯感の中で生きのびることを選ぶのだ。こうしてみると、善人ぶった人たちの中に、どれほどの�善�が存在しているか、まったく疑問である。  善とは何か、悪とは何か、などと問うことは�人間とは何か�と問うのと同様、その抽象度において、天に唾する行為に似ている。しかし、少なくとも私たちは、日常生活の中で、あるいは感情の起伏のおりおりに、法律には触れないまでも、悪徳と呼ぶべき何かを行為し、悪を感じて生きているのだ。  もし、それをしも気づかぬふりをして、あくまで善人ぶって生きる人がいたとしたら、その人こそもっとも阿呆な悪人である。  私の仲の良い友人が話してくれた話に、興味深いものがある。彼女は現在、夫とアメリカで暮らしているが、この夫婦はもともと日本の大学の同級生で、結婚してから二人してアメリカへ留学した、いわば「スネかじり夫婦」である。  彼の方は日本の大学に在学中、すでに一年ほどアメリカへ渡っていたことがあった。彼はそこで、アメリカ人のモデル嬢と恋愛している。さまざまな事情から、そのモデル嬢とは別れねばならなくなったころ、彼は私の友人と知り合った。そして、すぐに彼女と恋愛関係に入っているから、彼ら日本人二人の恋愛と、彼とモデル嬢との恋愛がだぶって行なわれていた期間が、少なからずあったことになる。  私の友人の方は、その段階で彼が美しいモデル嬢とつき合っていたことも、別れ話がでていることも、全て聞いて知っていた。そのため、別段、嫉妬《しつと》はしなかったが、次第にアメリカ女のしつこさにうんざりするようになる。  モデル嬢は、彼女と彼がつき合い始めてから二回、日本にわざわざやって来て、二人の前に姿を現わした。彼が「ごらんの通りだから別れてほしい」と言うと、素直に「OK」と答えるのだが、「別れても私とアナタは仲のいい友達同士」であることを強調する。  はじめは、アメリカ人特有の人なつっこさから来る仲間意識だと思って、彼女も我慢していたが、結婚して二人が渡米してからも、モデル嬢は、誰はばかることなく、若夫婦の新婚家庭に電話をかけてきた。それにいちいち応対する夫。「いい加減にしたら」と言っても彼は「ただの友達でつき合おうよ。彼女も淋しいんだろう」と取り合わない。  確かに自分とつき合い出してから、夫とモデル嬢の間には、秘密の肉体関係があったとは思えないし、ましてや結婚したのだから、いくらアメリカ娘でも、どうどうと夫をデートに誘うことはしてこない、でも……と彼女は言う。 「うるさい女だったわ。一週間に少なくとも二度は電話をかけてくる。私が出ても、夫にかわってくれと言うだけ。そして、引越しするから手伝ってほしいとか、誕生日だからバラの花束を贈ってほしいとか、そんなくだらないことばかりを夫に頼むのよ。あんな女、消えてなくなればいいと思ってた」  ところが、彼女が「消えてなくなればいい」と願った、そのアメリカ娘は、ある秋の日の午後、何者かによって本当に殺されてしまったのである。乱れた性関係の中で、彼女に嫉妬していた男が犯人だろうということだった。犯人は未だにわかっていない。  彼女はその知らせを夫から受けた時、飛びあがって喜んだのだという。夫は彼女の非人道的態度を怒り、責めなじった。あろうことか身近な人の死……しかも悲惨な殺され方をした若い女の死に、飛びあがってブラボーと叫ぶなんて、君はそれでも人間か、とすごい剣幕でどなりちらした。 「彼が何と言おうと、私は心の底から嬉しかったわ。そうよ。私はあの女が殺されて嬉しかったのよ!」  彼女は鼻唄をうたいながらパイを焼き、一人でワインを開けて飲んだという。葬儀にも出ず、何年かぶりで解放されたよろこびにひたりながら、しばらくは胸がときめくのをどうすることもできなかった。  一人で葬儀に参列した彼女の夫は、目を赤く泣きはらして帰ってきた。それを見て、彼女は言いようのない嫉妬にかられたが、すぐその後でテレビのフットボールの試合を見ながら、子供のように無邪気に興奮する夫の姿を見出して、安心したのだという。 「結局、私にとっても彼にとっても、邪魔者が消えたという安堵感《あんどかん》は、ぬぐい去れなかったのね。夫は善人ぶるところがあるから、昔の恋人の葬儀で泣いてみせることもできるけど、彼も実際はホッとしていたんだと思うわ。私は、そりゃあ、有頂天だった。人の死を喜ぶなんて、私もたいした極悪人だわね」  私はちっとも彼女が極悪人だなんて思わない。彼女が感じた喜びは、ごく当たり前の人間の感受性によるものである。誰もが感じる、�憎たらしい人の死に対する喜び�である。  善人ぶった人びとは犯罪人が殺されたら、「ザマアミロ」と言うだろう。「当然の報いさ」と笑うだろう。  しかし、何の罪もない人……たとえば、この殺されたアメリカ人のように、別に亭主を寝取ったわけでもない、ただ、友人として昔なじみとして電話をかけてきては、人の亭主と話をするだけの、無邪気な若い娘が無残な死に方をしたとなると、話は別になってくる。娘の葬儀に参列せずに、家でパイを焼き、一人でワインを飲みほしていた日本人の女に対して、いっせいに攻撃の矢を放つのだ。 「何故、泣かない」「何がそんなに嬉しいのだ」と。  そして、死んだ娘と何の関係もなかった善人たちは、鼻をすすり、目頭をおさえ、「かわいそうに」とひとしきり言ってみる。二、三日もすれば、そんな葬儀のことなど忘れて、ジョギングに励み、仲間とのパーティを楽しみ始めるくせに。  自然は私たちに決して道徳を教えない。イルカの虐殺の図を見て「かわいそう」と思わせ、犯罪人の親を登場させて「責任をとれ」と野次ったり、他人の葬式に出て涙を流してみたりすることを強要するのは、すべてこれ、自然ではなく、宗教である。哲学である。  自然は私たち全てが、一個人として、居心地よく生きられるように、あらゆる�悪事�を命ずるのだ。  不必要な人間を消し、いやな責任から逃れ、自分だけ良ければいいという立場に立つことを、自然は命じる。  生きている価値のない人間を救済せよと呼びかけるのは、自然ではない。自然は彼らをなぐり殺せと命じるのだ。私の友人のように、人の死を喜べと命じるのだ。  私は何も、自然の命じるままに生きろと言っているのではない。ただ、善人ぶって自然を忌み嫌い、くだらない宗教や哲学や道徳にしがみつきながら、何もわかっちゃいないくせに、もっともらしいたわ言を吐くのだけは、やめてほしいと思うだけだ。  そんな傲慢《ごうまん》な文明人になり下がるのだけは、男も女もやめにしたい。  私たちの心の奥深くに潜んでいる、あるがままの自然の人間の姿を忘れてしまったら、私たちは永遠にこの文明社会の中で、わけのわからない善と悪にふりまわされながら、結局は墓穴を掘って生きていくしかなくなる。  自然は人間に対して、悪しかすすめていない。その悪が、裏を返せば真実であるかもしれないという疑問を一生、もち続けていかない限り、私たちの社会は、本当は罪のない人間をしばり首にする、残酷な社会になっていきかねないのである。  内なるモラルを確立せよ  私は小学校時代、道徳の時間に教師が口を開けば「助け合い、協力し合っていけるよい子になりましょう」と言っていたのを、説明しがたい嫌悪感を抱いて聞いていた。 �よい子�はエゴイストであってはいけないのだった。人に親切にし、人と協調し合って社会を作っていかなくてはならないのだった。放課後の掃除をサボルのは�悪い子�だったし、教科書を忘れて泣いている級友に、自分のものを貸してあげないのも�悪い子�だった。教師たちの言う�よい子�は常に義務を遂行できる子、他人に親切にしてやるふりができる子にすぎなかった。  そんな教師の�よい子�論に従って、級友たちは皆�よい子�の芝居をしていた。私もその中の一人だった。教師は目を細めて私たちを見ながら、「それが生きていく上での最低のルールなのだよ」と満足げだった。子供たちにダマされているのも知らずに……。  中学、高校と進むに従って、教師たちは今度はしたり顔で、人生の難しさを説くようになった。「踏まれても踏まれても、みずみずしさを失わない、雑草のような人間にならないと、世の中を生き抜いていけません」とか「悩む時は真剣に悩むことです。人生は重荷を背負って歩くようなものだから、いつも幸福であろうと望む方が間違っている」とか……。  生きることは大変なんだよ、絶望と涙の繰り返しなんだよ、それがわかっていないと強い人間にはなれないんだよ……と、彼らは私たちを前にして、安っぽい人生哲学を偉そうに口にしたものだった。小学校の教師といい、中学、高校の教師といい、何故こんなに人生のルールやら、人生の難しさばかり説きたがるのだろうと私は不思議に思った。  生きるためにはルールが必要なのは、当然のことである。だが、そのルールとは、それに従っていれば、誰にも後ろ指をさされないというだけのルールであって、ルールを守る人間が即ち�よい子�であるとは限らない。 「人を殺してはならない」というルールに皆が従っているのは、ただ単に「人を殺すと罰せられるから」という理由があるからにすぎない。誰でも憎む人間をぶっ殺したい衝動にかられている。自分にとって迷惑になる存在を抹殺したい欲求をもっている。それは生きとし生ける者の本能なのだ。それを必死で押えてほとんどの人が人殺しをせずにこらえているのは、その人たちが�よい子�であるからではない。罰を受けるのがイヤだから……ただそれだけのことだ。  私が小学校のころ、掃除当番をさぼらずに笑顔さえ作って雑巾がけをしたり、遅刻をしないよう心がけたり、人に親切にしたりしていたのも、私がルールを守る�よい子�だったからではなく、ルール違反をして、教師に白い目で見られるのがいやだったからだ。私は本当は掃除など誰かがやればいいと思っていたし、朝は寝たいだけ寝たかったし、好きでもない人に親切にするのなんて真っ平だという子供だった。  にもかかわらず、周囲の人たちは教師も含めて、ルールを守る私を�よい子�とほめた。私は心底、おかしかった。  それに私は人生が難しいだなんて、思ったこともない。「踏まれても踏まれても……」の雑草のように生きる人間、悩みを背負いながらもなお、耐え抜く人間……道徳の教師の言う、こうしたガマンするだけの人間に価値があるなどと信じたくもなかった。そんな被害者意識は死んでも持ちたくなかった。それではまるで、人生という名の怪物に終生、追われっぱなしの哀れな小ネズミと同じじゃないか。 「人生は月並なのだ」と言ったのはフランスの作家、A・カミュである。人生は難しくなんかない、ひどく単純だ、人生を難しくさせているのは、人間たちの方だ……と彼は言うが、私もまったく同感である。  生まれて、食べて、眠って、勉強して、人を愛して、嫉妬して、泣いて、笑って、憎んで、貧乏になったりしながら、老いて死んでいく人生の、どこが難しいんだろう。悲しみや絶望を無理矢理、大袈裟《おおげさ》にとりあげて、「生きることは重荷を背負ってゆくことです」などと、得意げに語る教師たちを私は内心、せせら笑った。  人生とか生きることに対し、意味づけをしたがるのは、人間の悪いクセである。自分が守れるとは限らない、道徳やモラルを勝手に作りあげる愚かさは、自分たちが自分たちの作ったモラルに、がんじがらめに縛りつけられているのに気づかない愚かさをも生み出している。そして、それらの愚かさは、次から次へと社会の掟《おきて》を作り上げていく、悪循環を繰り返していくのだ。 「人を殺してはならない」に始まって「嘘をつくのは悪人だ」とか「人をだましつつ生き続けるのは不純だ」という一連の精神のモラルに至るまで、今日ではすべてが�社会の掟�と呼ぶにふさわしいものになってしまっている。本能に従って行動し、結果的に掟を破った人間は当然、そこで罪人となる。法を犯した罪人はともかくとして、他人を裏切ったり、傷つけたりしてしまった人も、ある意味で社会や周囲の人びとの制裁を受ける羽目に陥る。裁いた人たち自身も、いずれ誰かに裁かれるということを忘れているのだ。  知り合いの男性で、結婚五年目にして妻以外の女性と恋仲になり、妻のもとへ帰る気にならず離婚すべきか、どうしようかと悩んでいた人がいた。  私は彼の打ち明け話を聞いた時、もうこの人は、いくら他人が「離婚するな」と言ったところで、恋人の方へ走っていくところまできてしまっているなと思った。幸い、子供もいなかったし、彼さえきちんと慰藉料《いしやりよう》を払えば、むしろ、心が完全に離れたままで夫婦という形をとっている彼の妻も、新たな幸福を見つける可能性がある。当時、彼の妻はまだ二十八歳だった。  若いのだからこれから先、他の女に心を移した夫にかまっていることはない。そうそうに見切りをつけるべきだと、私は思っていた。  ところが、彼の離婚は難航した。彼の妻が同意しなかったからではない。周囲の人びとが離婚を許さなかったのである。彼は哀れな罪人だった。夫思いのやさしい妻を裏切って他に女を作り、ましてやその女と一緒になるために、妻と別れるとは何たることか……と、人びとは彼を糾弾した。  彼はあちこちを弁解して歩いた。「私が悪いんです」と頭を下げてまわった。それでも彼を制裁したがってムズムズしていた人間たちは、彼をののしり、皮肉を言い、あげくに彼のもとから去っていった。  丸二年もかかって、やっと彼は妻を籍から抜いた。その時の彼と久しぶりに会った私は、彼が身体も心もボロボロになっているのが一目でわかった。見るも哀れにやつれた顔をうつ向かせて、彼はこう言った。 「僕は最初、自分の心変わりが、こんなに周囲の人びとを怒らせたことが信じられなかった。女房との言い争いに疲れたんじゃなくて、僕は社会のやつらからの攻撃に疲れてしまったんだよ」  彼はその後、半年たってから恋人と結婚。一応、精神の安定を得たが、職場での地位は失われてしまった。  そんな時、彼の離婚を厳しく追及し、非難し、非常識者とののしった男の一人が、女房以外の女に子供を孕《はら》ませてしまったという事実が、職場で明るみに出た。その男は自身がののしったように、周囲の人びとからののしられた。  羨望《せんぼう》とやっかみもあったのかもしれないが、妻以外に女を作ることができるほど、金と男っぷりの良さをもち合わせた男として、さんざん痛めつけられた。  困惑したその男、すかさず�同病相哀れむ�で、彼のところへ相談。彼はその男の顔に、往復ビンタをくらわせてやったのだと言う。私はその話を彼の口から聞いた時、「よくやった」と思う以前に、人びとの鈍感さを思い知らされた気がして腹がたった。  妻を裏切った形になった彼は、好きで裏切ったのではない。妻以上に愛する女ができたから、妻にサヨナラしただけだ。そしてその妻も納得している。当人同士のこうした心の問題を何故、何もわかっちゃいない周囲の人間が、常識だの道徳だのをもち出してきて、おさえつけようとするのだろう。何の非もない彼の妻にサヨナラを告げることが、社会の掟にそむくことであるならば、掟を破った本人だけが、その罪深さを認識すればいいのだ。何も周囲の連中が立ち入ることではない。  誰だって自分を生かそうと思ったら、やむを得ず、掟を破らねばならない時がある。彼にビンタをくわされた男だって、掟を破った彼をののしっておきながら、自分がその立場に立って、初めて掟破りに対する人間社会のいやらしい弾劾を目のあたりにしたのだ。その男は、まさか自分が掟を破るとは思ってもみなかったに相違ない。だから何の関係もない、彼の離婚話にもっともらしく口出ししていたわけだ。  社会における掟や常識や道徳は、初めからあってなきがごとしであると、私には思われる。  掟や常識や道徳をぶちこわすような、本能の燃焼を経験したことのある人なら、そんなことは当たり前のこととして認識しているだろうが、そうではない人——つまり、それらにしがみついていれば安楽に生きられると確信している人——には理解しがたい話だろう。その人たちは�あるがまま�の自分を完全に忘れ去って�あるべき�自分を表出することにより、社会とあくまでも対立せずに生きていこうとする人たちである。 �あるべき�姿を知っていることは当然のことだが、�あるがまま�の自分を忘れ去ってしまうことは恐ろしい。�あるがまま�を生きようとすると、人は必ず社会と対立することになる。掟や道徳を破らねばならなくなる。そして、そこで初めて気づくのだ。自分と社会、ひいては、この世界との間にある大きなギャップに。  生きるということは、そこから始まるのだと私は思う。道徳の教師が教室の壇上から、いかにも重大事のように語る「生きることは難しい」という言葉にうなずくことから、人生が始まるのでは決してない。  私は今、自分で感じることだけが真実である、と思っている。それ以外はどんなに偉い人が語っているものでも、私にとっては嘘っぱちだ。私が見たもの、私が手で触れたもの、私がそこで感じ、経験したもの、それだけが真実だ。  だが、私が自分一人で感じたことを勝手に真実だとして、社会にも認めさせようとすると、たいていは、私は社会と対立しなければならなくなる。ひどい時には、社会から抹殺されねばならなくなる。  だから私は�あるべき姿�を装い、演出しながら、�あるがままの姿�をひた隠しに隠していくしかないのだ。社会の中で生きようと思ったら、そうするしかない。私は生きるということは、そのことに尽きると思っている。  人間は全て、この�あるがままの姿�を合わせ持っている。それに気づかずに社会に参加する人が多いだけだ。 �あるがままの姿�を認めることは、勇気のいることである。こんなに非情で、こんなに冷酷で、こんなにエゴイスティックで、こんなに淫乱なのが自分なのだという、まぎれもない事実を、ほとんどの人は認めたがらない。�あるべき姿�を必死で自分そのものだと思いこみ、常識人を気取り、非常識者を非難する。  もっと認めなくてはいけない。社会にとって、マイナスの価値しかもたない自分、インモラルな自分を、もっとありのままに見つめなくてはいけない。  それはひとつの宇宙への挑戦である。人間社会の掟を生んだ宇宙への反抗である。だが、その反抗を超えてみると、私たちは、私たちを縛りあげている掟から解放されている自分に気づくはずである。  社会と自分との間には、大きな溝が歴然と存在していることに気づかなければ、私たちは、いつまでもつまらないモラルから解放されずに、死んだように生きなくてはならなくなるだろう。  モラルとは、その人個人が自分で作り出すものなのである。そして、生きるとは、その自分なりのモラルに従いつつ、社会との対立を自覚して、常識に反抗し続けることなのである。そこにこそ、何か新しいものが生まれ、不当な何かが変わっていく出発点が生まれるのだと、私は信じる。 角川文庫『悪の愛情論』昭和57年11月20日初版発行